A8 礼について…礼は命を尊ぶ心 

礼という文字は神にひざまずき祈る姿を表しています。
そして礼の心を学ぶのは子供時代がとても大事と易の卦が説いています。
易経の34番目に「雷天大壮・001111」という卦があります。
大壮というだけに陽気(1)が壮んに上に向かい伸びていく元気の良い象形で、人の小学生時代のように体の生長が著しく、背丈がどんどん伸びていく成長期のようなイメージです。中には大人以上に背丈の伸びる子もいますが、雷天大壮の爻辞に面白い表現があります。
「小人は壮んな勢いに任せ突き進むが君子はしない。……牡羊が頭から突っ込んでいき垣根に角をひっかけて苦しむことになる」
例えれば、子供の牡羊は早く立派な角が生えて、父さんや兄さんのように野山を駆け巡りたいと思っています。やがて体が成長し角も立派に生えてきます。
そうなると、僕だってもう一人前と自信過剰な心が芽生え、経験も知識も技術も十分でないまま突っ走ってしまいます。すると父さんや兄さんが軽々飛び越えていく垣根を、「僕だってできるさ」と勢いのまま飛び越えようとして越えられず、垣根に角をひっかけて身動き取れない状況に陥ってしまいました。
もし野生の牡羊であれば、自ら角を抜くことができないと死も覚悟しなければならない状況になります。
易経は単純で比ゆ的な言葉ですが、この例えは、吸収力もあり元気壮んな少年期にこそ礼の心を体得することの大切さを説くものです。
礼は神にひざまずくこと…神とは天地の創造の力です。天地・父母により創造された子である自分は、神から天命を受けた尊い命であることをまず実感できることが礼を体得する始まりです。折に触れ命の大切さを子供に伝えることで、その知識は知性となります。自分の命の尊さを知ることから、他の命を愛しむ気持ちが芽生え、自分を創造し育んでくれた天地・父母への自然な感謝の心が育ちます。そして師や年長者を敬う心が育ち、友と親しみ、やがては小動物や小さな虫たちの命の尊ささえ実感でき、他を愛しめるようになっていきます。
他者を愛しみ慈しむ「仁」の心は、礼の知行といえます。人は常に他と共にあることを実感し、他を慈しむ心は知性であり、実践する事を行といい、知行となってこそ陰陽の統一した働きとなります。
昔々、子供の頃に読み聞かせられた様々な童話には、「礼」の教えが沢山ありました。礼が仁を育て、仁は義を行う精神力を育み、そのために真(理)を探究し知(性)を育むこと…その根本は「礼」の心、命を尊ぶことにあります。礼の心は、勢いがあり意欲も盛んな子供時代にこそ吸収すべきことで、命を愛しみ、自信過剰を戒め、他の命を尊ぶという、人としてとても大事な根本の知性であると教えられます。小動物を平気で殺める子どもたちを心から案じてしまいます。

A7 伝説の神「三皇・五帝」と易の「三才・五行」は同じ?

「三皇・五帝」は中国古代の伝説上の賢帝であり、聖人とされ崇められています。

前漢(前202~8)の武帝の時代、歴史家の司馬遷が編纂した『史記』には、秦の政王(前259~210)が六国を滅ぼして中国全土を統一した時、三皇の皇と五帝の帝をとり、初めて皇帝の称号を定めたとあり、秦王、政は自ら「始皇帝」となりました。

伝説の三皇は伏犠・女媧・神農ですが、天皇・人皇・地皇という説もあります。

伏犠は八卦を創り河図を公表したと伝えられ易の始祖といわれます。伏犠の妻である三皇の一人女媧と共に描かれた人頭蛇身の下半身をからめた絵があり、聖なる男女の婚姻を示し婚姻の礼を定めたとして永く信仰されてきました。また庖犠という別名があり、火を使い料理することを教えたことから、現在でも宮廷料理を司る旧宮家に包丁の儀式が伝えられ、料理人の神と崇められています。伏犠と女媧が人間の創造主であるというアダムとイブのような設定もあり、八卦や河図に関しても諸説あることから、後世にその偉業を称えて創世記の聖人としたものではと思えます。神農も薬草を発見しお茶を創った人物として、農業や薬の神と崇められています。

黄帝や尭帝・舜帝などの五帝についても聖人伝説が残されていますが、易の要素でいえば、三皇は天皇・人皇・地皇であり、五帝は木帝・土帝・金帝・火帝・水帝を示していると捉えられます。三皇は天人地の三才を示し、五帝は木火土金水の五行を示すものなら、農業の暦とも重なる一年運を表すものです。木が金に変化する過程に土があり、変化を加減するのが水と火の働きです。天地に万物(人)が生じる五行の変化を示すものが三皇五帝となり、古代の国の命運を担う万物の礎として崇められ、後世、相応しい聖人があてられたのではないかなと思っています。

A6 「占」の文字の発祥と意味について

「占」という文字のルーツをさぐってみます。
白川静先生の『常用字解』には、卜は亀の甲羅の裏側にナツメ型(楕円形)の穴をつくり、そこを焼いて表面にできた卜型のひび割れの形。その形で卜(うらなう)。口は神への祈りを入れる器の形。神に祈って卜い、神意を問うことを占うという…とあります。
別の言い方をすると、亀の甲羅や動物の骨を焼くと卜字状にひびが入ります。そのひび割れの卜形を見てシャーマン(王)が神意を読み取るので卜うとなり、そのご宣託を口で民に伝えたので、卜(うらない)を口で伝えることから「占」という文字が生まれました。
その卜(占)いは神意であり絶対的なものであるから、占には「しめる・もつ」などの意味が加わります。独占→独り占め、占領→ある場所を独り占めにする、占有→何かを独り占めにするなどの言葉になります。神意はシャーマン(王)だけが受け、その言葉は絶対だったのですね。

亀卜と言えば、紀元前1400年ごろの殷の甲骨文字が知られています。殷墟で発掘された多くの甲骨には文字が刻まれており、大半が卜(占)に関するので、その甲骨文字を卜字ともいいます。
占うことは選ぶことであり、選という意味は道を選ぶこと、撰もえらぶですが、人の手で良いものを選ぶので、○○賞の撰者などといいます。
人が前に進むために何かを選ぶことは不可欠の作業です。目覚めてから眠るまで、何を食べる、何を着る、誰と会う、どこへ行く、何をする、行き方はetc,能動的にも受動的にも日々選ぶことで人は一日を過ごしています。
そのような意味では、占うことは誰でもすることで、皆占う人と言えるでしょう。
日々の指針や道を選ぶための道標を求め、未来に繁栄と安寧を願い、賢明な生き方を求める心が様々な占の方法の探究に発展していきました。
易は、神意にも通じる天地自然界の法則を、数理的、哲学的に探究していく過程で確立されてきたものです。

A5 東洋と西洋の違いについて

古代人が手を広げてパー、結んでグーとして陽と陰を示し、更に片手は五、両手で十と数えたという説は、五進法の始まりともいわれます。東洋ではなぜか奇数を好んで一単位を五とすることが多いですね。食器は五客、座布団も五枚一組で数の単位も5・10・15…、西洋の食器は六個で一組、1ダースは12です。東洋は一人で行動するのを美徳とする傾向があり、家族は両親と子で一単位、川の字の雑魚寝も普通感覚です。西洋は夫婦と子供は別室が当たり前で、ペア・夫婦で一単位という意識があり、文化の違いをあげればきりがなくあります。

易では奇数は陽、偶数は陰を表しますが、東洋の文明は割り切れない「+1」、神秘などを受け入れて奇数文明の様相があります。西洋は2で割り切れる偶数文明で、目に見えない神秘さえ科学的に探究して、量子力学などがいち早く発展しました。

しかし陽は陰を内有し、陰は陽を内有しています。文化と人の内面は反対であるともいえ、陽の東洋人は陰的な情緒や心の動きを重視し、半面科学的で論理的な西洋文明に憧れます。陰の西洋人は陽的に理屈を追及し、逆に情緒的な東洋文明に憧れるという複雑な現象に表れます。言語などの表現法を見ると、西洋は表音文字の一音ではよくわからないアルファベットを生み、東洋は一音に意味のある表意文字の漢字を生み出しました。ちなみに日本人は折衷文化を好むのか、表音のカナ文字を生み、漢字にも訓読みを生み、独特の言語文化を作り出しました。余談ですが西洋人にも東洋人にも日本語が難しいといわれるのも納得します。

陽の心は陰を表現し、曖昧を寛容に受け入れ、陰の心は陽を表現し、曖昧を許さず結果求めと逆に働き、表面とは異なる内面を表現して文化が創られているように思えます。

易で説く東洋は2+1=3の奇数文明、西洋は2が4となる偶数文明ですが、共通するのは2から発展することです。2は陰陽(両義)を表し、その元を易は〔太極1(0~∞)〕といいます。元が太極〔1〕ということは、理論的には〔1〕=2=3=4…といえ、地球を東西に二分した東洋と西洋は根元・親(太極)を同じにするものです。ややこしい話はさておき、〔太極=地球〕、〔太極=人間〕という見方をすれば、なるほど「世界は一つ」、「人類みな兄弟」になりますね~…

易は結局中庸にいきつく道で、感情や利権を争い、一時対立に勝ったところでまた繰り返すだけで、虚しいものと教えられます。

 

 

 

A4 メソポタミアと古代日本の類似点-2

書の中で、王朝が滅んだあとの古代シュメール人の一部が、船で日本に渡り、関東に定着したのではと推論しています。現在の茨城県・鹿島神宮と千葉県・香取神宮は海に近く、大小の水郷を挟んで対峙しています。その辺りは、キ・エンギ(葦の沼の地)と呼んだシュメールの民の故郷の景色とよく似ており、故郷の「チバイシ」という地名と千葉という地名の符合にも思わず唸ります。神宮と呼ばれる格の高い神社は、昔、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社でした。伊勢神宮はわかりますが、鹿島・香取は目と鼻の先にあり、しかも関東の地です。なぜなのか不思議です。伊勢神宮が皇統に関係することは確かですが、この二神宮も古代日本のスメラミコトに関係していたのでしょうか…

そして忽然と消えた古代のシュメール人が葦船で世界の海へ、また日本へ渡ったという痕跡を証明するために、驚いたことに残された古代製法をもとに、インドで古代の葦船を復元して、日本へと実際に航海して見せたのです。現実に対馬沖までたどり着き嵐に遭遇して一命を取り留めたという冒険をした方です。新聞にも掲載され、その古代船は平成十一年まで横須賀の「うみかぜ公園」で公開されていたそうです。(残念!見ていません)巻末の航海記録は圧巻でした。関東から東北へさらに西へと、文字や風習・風俗・唄などにも多くのシュメール文明との類似点が残されていることも興味深く、古代のロマンに浸ることのできた岩田氏の書でした。私は他の観点で、易の数との符合をシュメール文明に見出し、その後しばらくシュメール関連の書物に熱中してしまいました。