啓山易ブログ

G-4史記の言葉 出処進退の指標

出処進退は、文字通り行くか退くかの命の瀬戸際で問いかける言葉です。

やはり酒池肉林の暴君とされた殷王朝最後の「紂王(ちゅうおう)」の時世末期のこと。

紂王の異母兄である微子(びし)は、再三にわたり乱脈を極める王をいさめますが、聞き入れられず、王の暴政に絶望します。
このままでは滅亡の日が目前に迫ることを察して、死んで抗議すべきか、または国を去るべきかと悩みを深め、楽官に迷う心を打ち明けました。楽官は祭祀の音楽を担当する官吏で、古代では宗教的にも政治的にもとても重要な職責を担っていました。

楽官は「殷は天に見放されてしまった。もはや国を離れるより術はありません」と答え、微子は殷を離れる決心をします。

さらに紂王の叔父、箕子(きし)は同様に王の悪行を憂い嘆き、幾度の諫言も聞き入れられず苦しんでいました。国を離れるよう秘かに勧める者もいる中で、箕子は「国を去れば主君の恥をさらすことになる。私にはできない」…そして箕子が選んだ道は、狂人を装い、奴隷に身を落とすことでした。

また王子比干(ひかん)は、臣下は命を懸けても止めるべき責任があると、真っ向から王の非を責めました。紂王は逆上して「お前は聖人か?!聖人には心臓に七つの穴があるそうだな!検分してやろう!」とただちに子の比干の心臓をえぐり出してしまいました。

王の近親者である、異母兄・叔父・子がそれぞれに国を思い王の暴政に悩みますが、瀬戸際で三人がとった出処進退の行動の結果は三通りの結末をもたらしました。

1)        微子・見放して国を去る…国を捨てるのも命がけの覚悟で、その後の運命は様々です。楽官たちは周に逃れ、武王決起の勢いとなったと記されています。おそらく微子も楽官と共に行動したのでしょう。

2)        箕子・狂人を装い奴隷となり囚われの身に…その後周の武王が紂王を滅ぼして周王朝を建国した時に、箕子は救われて武王に重用されます。武王に滅亡の原因を問われても恥として応えず、察した武王が一般論として聞き直したとあります。

3)        比干・真っ向から批判する…心臓をえぐられ即刻殺されました。

以後、この三様の出処進退のパターンは、同様の悩みに陥ったときの指標となりました。このように、出処進退とは悪政に悩み命の瀬戸際での決断を自身に問うものでした。

このような厳しい選択を迫られた時ではなく、自ら招いた疑惑や失敗で出処進退というのはいかがなものかと思いますが…

 

 

 

G-3史記の言葉  革命

禹王に始まる夏王朝の最後の桀(けつ)王を滅ぼしたのは、殷王朝の開祖湯(とう)王です。

桀王は暴虐無道の政治を行い人心を失っていたため、万民の苦難を取り除こうと、諸侯を率いて商の湯王が討伐に立ち上がりました。湯王は決起に当たり後に革命の論理ともいうべき宣言(湯誓)を発しました。

要約すると「諸人よ私の言葉を聞け。我が桀を討伐するのは断じて反乱ではない。桀の罪は甚だしいために汝らの声に応えて立つのだ。我は上帝(天帝)を恐れその御心に随う。夏氏(夏王朝の王)に罪はあまりに多くこれを正すことを天が我に命じたのだ。」

そして万民を苦しめている桀王のあらゆる罪状を述べてこう結ぶ。「夏の徳がこれほどまでに薄れた今、我は討伐に赴く。我と共に桀に天の罰を与えよ。我を信じよ。我は汝らに十分に報いるだろう。しかし我の誓言に従わなければ汝らとその一族は刑罰を免れないものと思え。」あらゆる罪状とは万民に苦しみを与えた諸々のことを言っています。

過去禹王までは表向き禅譲により王位を継承し、禹王から世襲による交代が行われていましたが、今から三千数百年前、湯王の誓言により論理的な権力交代の大儀が生まれたのです。

*地上を治める主君は天命により選ばれる→非道の主君は天に見放され資格を失う→ゆえにそれを討つのは天命を代行する行為である。

つまり「命(天命)を革(あらた)める」→「革命」の原点は湯王の誓言(湯誓)にあります。

「天罰を与えるために革命を遂行する人間は、武力により討伐をしてもかまわない」という大義が生まれ、以後何千年にもわたり王権や政権交代の大義名分となり正義となってきました。

易の沢火革011.101の卦も革命の論理を説きますが、そこには万人の願いに随い決行することが革命成功に不可欠であることが説かれています。

現代は多くの国が民主的な選挙という手段により政権を選択しています。天の命ではなく万人の命の表れといえますね。今は参院選の最中、多数の人の願いはどこにあるのでしょうか… 万民の一票には重い責任があります。

G-2史記の言葉 「酒池肉林」

G-2「酒池肉林」

夏王朝の次に紀元前16世紀から11世紀に亘り栄えた殷王朝があり、結果として最後の王となった悪名高い紂王がいる。

殷が周の武王により滅ぼされた原因は、紂王の暴政が原因だったという。

紂王は才能豊かで身体能力にも恵まれた人物だったというが、その恵まれた才能を暴虐無道な権力として発揮してしまったために、天地に見放され人心を失って周に誅殺の使命という天命を与えてしまったと伝えられる。

それは様々な暴政があったといい、その一つを例える言葉に「酒池肉林」がある。

文字通りの意味は池に酒を湛え、林に肉片をかけて酒宴を張ったという贅沢三昧を言うが、実際は毎夜酒を浴びるように飲み、あちこちで淫行乱交が行われたという乱れたバカ騒ぎを連想する。

そして天命を受けた王が悪行のためにその資格を失ったため、やむを得ず滅ぼすに至ったということが、勝者の口実であり大儀になり歴史に記される。

いつの時代も権力の交代に至る本当の真実は庶民にはよく分からない。

G-1史記の言葉『史記』と著者「司馬遷」G-2禹王伝説・自ら先頭に立ち働く指導者の姿勢

G-1史記の言葉 『史記』と著者「司馬遷」

『史記』は古代中国の最初の歴史書です。

紀元前200年頃、古代中国初の統一国家であった「秦」が滅び、農民出身の劉邦(りゅうほう)が「漢」を建国しました。(紀元前202年~前87を前漢・紀元25~220を後漢という)

『史記』は前漢の時代、強大な漢帝国を築いた七代「武帝」の時世(在位・前141~前87)に書かれました。著者である「司馬遷(しばせん)」は武帝に過酷な運命を課せられてもなお、歴史の真実を書き残す事業に人生をかけた人物です。

司馬遷は一貫して人間を通して歴史を描いたことから、『史記』は「紀伝体」という形式を初めて用いた歴史書となりました。

五部・百三十巻に及ぶ大部な書物ですが、現代語訳が色々出版されており、わたくしが読んだ徳間書店発行の『史記』全八巻も物語のように大変読みやすく書かれています。

二千年に亘る古代中国の歴史に重要な活躍した人物の生き様やその言葉は、今を生きる私たちも大いに啓蒙される英知や諦観に溢れ、また指針となるものが多くあります。日常の中にも浸透している言葉も多く、改めて史記の言葉であったことを知る驚きもありました。

著者の司馬遷は、史官の長である太史令という家系に生まれ、その役職に就いていました。史官とは周の時代に設けられた官職ですが、忠実に事実を記録し、事実を厳格に見る目を持ち、批判も恐れない厳しさで役職を担う人々でした。

権力者からは都合の悪い事実を曲げて記録せよと要求がありますが、史官は殺されても従わなかったというエピソードが紹介されています。

司馬遷も太史令だった父の跡を継いだ時に、遺言である過去二千年の歴史を書き記す大事業に取り組み、史官としても厳しい覚悟をして仕事をしていましたが、ある時に、真実を述べて武帝の怒りを買い死罪を言い渡されます。

しかし歴史を書き記すという大事業も道半ばでは潔く死ぬこともできず、生き恥をさらす覚悟で宮刑(男根を切り落とす刑)を願い出て死罪を逃れます。

その後武帝が病床に伏したときに恩赦となり、今度は宮刑を受けた宦官であり史官であることを都合のよい理由に、男子禁制の武帝の寝所に仕えることを命じられます。生死を翻弄される虚しさを抱きながらも武帝に仕え、また全国に調査に出かけ、多くの古文書を読み、歴史書の完成に粉骨砕身したと伝えられます。そして『史記』の完成を見るとまもなくこの世を去りました。

『史記』の現代語訳の冒頭から司馬遷の生き様に驚き感嘆し、一気に史記の世界にのめりこんだことを思い出します。ブログ『史記の言葉』を楽しんでいただければと思います。

G-2史記の言葉  禹王伝説・自ら先頭に立ち働く指導者の姿勢

≪十三年間家にも寄らず≫

「禹は舜王の命を受けて治水事業に全身全霊でとりくんだ。その働きぶりは、13年間家に帰らず、たとえ家の前を通りかかっても寄ることがなかったほどだった。

自分の生活を質素に、宿舎を簡素にして、その分を治水工事の費用に回した。常に定規とコンパスや測定器を放さず、いつでも測量ができる態勢を取った。

そしてついに全土に堤防を築き、道路を通し、土地を開拓して大事業を成し遂げた。

さらに人々に稲作を教え、食べ物の流通をはかり、諸国の生活水準の格差を是正した…舜王はこの功績を認めて禹に王位を禅譲した。」

禹は中国最古の王朝といわれる夏王朝の開祖である。…というお話です。

13年間家に寄らず…ということが立派というのではなく、質素倹約に努め、誠心誠意、粉骨砕身して人々のために率先して働くという、上に立つ者の理想の姿を示している例えなのです。

 

 

F-13易の言葉  事業とは?

易経の解説書である繋辞上伝(けいじじょうでん)の最後に、「…これを事業という…」という一文があります。

一般的に「事業」は仕事を差しますが、特に社会的意義のある大きな仕事を差しているように思います。

繋辞上伝では、事業について下記のように説いています。

〔目に見えないが実在である道は、形となって目に見える現象に表れ、その現象が相互に作用して変化し、変化することにより発展する。このように発展的に通じる道をもって、民を導くことを「事業」という…聖人はこの道理により人々の活動を円滑にし、万民を発展へと導くが、それと意識もさせず、自然に変化に順応していくことで成就へ導くのが聖人の徳である。〕

事業とは、社会的意義があるのが当然で、人々が円滑に活動できて、さらに発展へ導かれるものであること。そして従事する人々が自然に順応しているだけで発展に導かれる。このように成就させるのが事業を行う人の徳であり、その事業はさらに素晴らしく発展するという意味に捉えました。

易経に吉凶悔吝という行いの結果を示す明快な基準があり、吉凶も易から生まれた言葉ですが、例え過ちを犯しても気づき「悔い」改めれば吉へ転じ、吝となると凶への道をたどるしかありません。

「吝嗇・りんしょく」はこの「吝」を用いた言葉で、自分のお金はひどく物惜しみするケチのことを指し、易の説く吝の行いの結果は明白に凶となります。

世の中の事業家といわれる方の中には、正当な対価である給料さえ、損をしたように思う方もいるようですし、まして税金で賄う事業は人々の発展と幸福のために行ってほしいものです。