B5 自分・自己とは・・・続き

…続き…
性別や年齢など変わらないものはあります。逆に自分を取り巻く環境は皆異なるものです。女だから、若いから…年寄りだから…、またお金がない、理解されない、仕事がない、など恵まれない環境を嘆き、あきらめて何もできない自分がいるのでは?自分を「こんな状況だから」「こんなもんだ」と限定し固定化させてしまえば、易を理解することは難しく思われると思います。なぜなら易は限りない変化を説くものだからです。しかしその中には不変の固定したものがあることが不可欠の要素なのです。
今の自分を正しく素直に見つめなおしてみれば、過去からのさまざまな変化(運命)があることは間違いありません。あの時違う選択をしていたらと思うことがあります。反省はともかくこれは無駄な後悔です。時は一時もやむことなく続き、今の自分を取り巻くすべてが、その時その時の選択の結果です。過去を否定したままなら自分はいなくなってしまうでしょう。
そう考えれば、今から、これからの未来に向かい、誤りを修正し、延ばしていくことができると思いませんか?
易は今の自分から未来に向かい変化していくための道しるべです。ブログの初回に、私自身の七転び八起きの人生からまた復活を誓った体験を書きました。誤りは生ある限り何度でも修正できます。易は限りなく変化する未来の自分を正道へ導く水先案内人のようでもあります。
安岡正篤先生の書の教えですが、中国、前漢の淮南王・劉安(りゅうあん)が編纂した思想書である『淮南子』に、孔子も尊敬していた「蘧伯玉(きょはくぎょく)」の有名な言葉があります。「行年五十にして四十九の非を知る」。さらに「六十にして六十化す」と続きます。昔の人生五十年は今ならリタイアする老年期で、良くも悪くも達観するような時期といえますが、相当な地位に就きその徳を認められた蘧伯玉をして、わが人生を非であると反省して、さらなる変化と進歩を目指そうという言葉です。
自分自身を否定して観念したらもう終わりですが、六十は六十化す、七十は七十化す…のが人生なのだと、私自身は相当勇気づけられた言葉です。また謙虚であることはとても大事ですが、元気を出すには「うぬぼれ」が少し必要かもしれません。捨てたものじゃない、まだまだ大丈夫と自分を励ますことも大事なことと思います。今日はどんな一日になるのか、願わくば良い変化がありますように…とつい願ってしまう凡庸な自分ですが…

B4 自分・自己とは

「自分」は自己(おのれ)を表す言葉で、私たちは何気なく自分といいます。今回のテーマは自分とは何か?…易が説く「自分=自己」について考えてみます。

人の天命は、無限の創造主である天の命を受けた生命が限りなく変化していくこと、つまり運命=人の人生そのものが天命であると述べました。

天には太陽があり、太陽の周りには太陽系の子供たち惑星がいます。無限の天を陽とすれば、対する有限の星、太陽は陰・地であり、天を父とすれば太陽は母といえます。そして太陽系の惑星は地球を含め、みな陽陰・天地・父母の子供です。さらに限りない創造変化をもたらす天地=天と太陽の働きを、陽=天=父とすれば、形ある星・地球は陰=地=母となります。そして母なる地球に生まれた人を含むあらゆる生命は、陽陰・天地・父母から生まれた子供です。宇宙自然界の法則とは、陽は陰を陰は陽を含み成り立ち、無限に進化と衰退を繰り返し変化していく生命そのものです。ではその子供である人は宇宙自然の法則に則れば、陰陽を含み成り立つ小さな宇宙を具現しているものです。その一人、自分とは地球に生まれた自己・自分(我)=天命なのです。

「自分」は天命ですから易でいう「数」であり、限りなく変化してやまない素質を持つものです。自分はいくらでも変化していくことができます。ですから「自分」を「こんなもんだ…」などと限定してしまうことは天命に背くことでもあり、宇宙自然界の生命の法則に反します。(続く)

B3 易の三義・五義・六義

2の天と天命では、数を天の無限の創造変化のはたらきの動的な変化であり、数のもたらす現象や作用がいわゆる運命であると述べました。つまり運命は変化し続けてやまないものです。

このように変化してやまないということを「易」といいます。易は「変わる」という意味があり、エキと読めば変化を表します。易は変化という動的な運命を探り、創造変化の実体を究明する学問です。変わらない固定的な宿命というものは易の本質ではありません。しかし変化を探り認識するためには、変わらざるものが不可欠であることも事実です。固定した宿命が変化して動的な運命となるもので、変化のはたらきは「不変」の数(例えば年月日の干支数など)を含めて易といいます。易は「変易」であると同時に「不易」を探るもので、その変化の過程に天の持つ無限の創造変化が働いていることは明らかです。このように易は宇宙自然界の創造変化のはたらきに則しているため簡単明瞭な理論であるともいえます。易はこれを簡単で優しいので「簡易(カンイ)」であるといいます。易はやさしいというときに「イ」と読みます(安易・容易…)。

この易の根本を示す①変易②不易③簡易を「易の三義」といい、不変と変化の簡易な法則は宇宙自然界の創造変化のはたらきに則る「因果の法則」であり、万物万象の変化における因果関係を示します。

これを探り、認識することで誤りを「修め正す」ことができ、さらに生命(性命)を「延ばす」ことができると易は教えます。易の根本理論である三義に加え「修正する」「延ばす」を加えて易の五義といい、さらに宇宙自然界の創造変化という神秘の働きを解く易は神秘そのものであることから、この「神秘」を加えて易の六義といいます。易の三義・五義・六義は安岡正篤先生の説く易の根本理論です。

不変(宿命)を含む生命は無限に変化(運命)します。その因果の法則は、神秘ともいえる宇宙自然界の創造変化のはたらきに則り簡単明瞭でもあります。人はその本質を探り認識すれば、誤りを修正する知恵を持つことができます。そしてその知恵を生かすことができれば、生命の力をさらに延ばしていくことができるのです。易を学ぶ確かな意義がここにあります。

B2 天と天命

天は宇宙であり、無限の創造変化を営む偉大な力・はたらきです。古代から人が探究し続けてきたのは、この偉大な天の力でした。
東洋では無限の天の創造主として人格化し、仰ぎ尊ぶ対象として天帝・上帝と呼び、独特の天人合一観が生まれました。西洋でも天を偉大なる父であり神として神格化し、宗教的思想につながっていきます。DSC_0167-1
易はこの天の偉大な創造と変化の神秘的な力を、理屈抜きの絶対的なはたらきとして感じ取り、その法則を探究する過程で発展していきました。
その絶対的なはたらきを人の天命といい、人の生命は天命の肉体的はたらきであり、意識や精神のはたらきは性命と捉えます。命は背くことのできない絶対的なはたらきです。日本でも古代から自己の存在や生活に絶対的意義を会得した人を命(みこと)といい、尊い人を表してきました。煩悩に流され、疑念を持ち、背いてしまうこともある我々普通人は命(みこと)の名をいただくことは叶いませんが、それでも人はすべて生まれながらに天命を受けているのですから、みな命・みことの域に達する素質はあるのだともいえます。
生まれた時の「命名」はまさに、天命を受けて生まれた絶対的に意義のある子に、俗世の呼び名を与える儀式のようで、おろそかにできませんね。
人の人生は、小さな自己から始まりさまざまな経験や学びを通して天命(自己)を発見し、会得していく旅のようです。
易は天命を感じ取り、把握して、よりよい「性命」となるための道しるべとなるものでしょう。知性などの人の能力は自己を探求しさまざまな素質を発見し、物ごとの因果関係を知り、善処する力となるでしょう。
人生のさまざまなできごとは、複雑に絡み合って現象となりますが、その中にある因果の関係や素質などを「数・すう」といいます。数は無限の創造変化の天のはたらきの動的な変化でもあり、数のもたらす現象や作用が命運・運命といえます。

尾瀬の秋の空

B1 易を学ぶことの意義

DSC_0205易のルーツは混沌としていますが、古代中国において体系化されてきた歴史があり、占筮に用いられてきたことからも、古代の焚書を免れて多くの書物や文献に著され伝えられています。
易は天地自然界の無限の造化のはたらきを説いており、天文・医学・農学などさまざまな科学の発展や、人の生活や生き方などに応用活用されてきました。歴史上の王たちはこれを政務のはかりとし、今でいう大臣や官僚などには必須の学問であったと認識されます。
これらの事実からも易は文明の礎を担っていたことは明らかです。
易を学ぶことは自然を学ぶことであり、そこに生きる生命の自然なあり方を学ぶことでもあります。
果ては宇宙自然界の生命の循環の法則であり、「無限の生命」と「限りある生命」の意味を教えてくれます。
易の叡智は賢明な人生を生きる知恵でもあり、その根底にあるのは生命の尊さ大切さを知ることと思います。
長い歴史の中で近年では非科学的なものとして扱われているようですが、偉大な易の研究者を多く輩出した中国でさえ、徹底的に古典が排斥されたできごともあり、易を知る人は少ないといわれます。
逆に西洋では自然科学の分野などで注目され、易は東洋数学であり偉大な哲学として認識されています。
陰陽相対性理論は一元の太極へ結びつき、太極は、現代の電子や素粒子などの理論物理学でいう、超ミクロの世界、極限を示す原物質の追究と重なります。また1が2となり4となり…無限に展開する究極のマクロの世界を表しこれを天といいます。
易を学ぶことの最も大きな意義は、易は宇宙自然の法則であることです。