啓山・易学の実践易学講座は通信科が中心です。全国どこにお住まいでも受講できますので、鑑定士として独立開業の道が開かれます。
易学セミナーは通塾制ですが通信も可能です。自然学としての易を知り、陰陽の捉え方や易経を立体的に読むことで、発展と収束の循環を学びます。日常の様々な状況を把握してさらに発展前進するためにとても役立ちます。
啓山塾の講座は少人数が基本です。まずはたった一つの花である自分探究から始めます。
お気軽にお問い合わせフォームより講座案内をお求めください。
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十二月は一年が極まる「極月」ともいい、一年のけじめに追われ、年越しの準備にも追われるきぜわしい時期です。師走については諸説ありますが、暦事典によると普段落ち着いている師匠といえども趨走(すうそう・忙しく走る)するので、師趨・しすう→しわす→師走となったという説と、師は法師で、十二月は法師を迎えて経を読んでもらう風習があり、法師が馳せ走るので、略して師走る→師走となった説があります。他にもいくつかの説がありますが、実際に普段どっしりと構えている師たる人もそうしてはいられない時期であることは納得できます。また師が走るほど忙しいなら有難いことですね。
易の十二月は八卦の坎=水で子の月。水は生物の源、生命を育む力で、植物に例えると土の中の「種子」を表します。十二支の子も文字通り子で人間の種子です。種子は秋に収穫された実の種であり、そのDNAを伝えて春に芽を出す次世代の命で、種子が途絶えるとその種は滅びます。
日本の野生のトキ(鴇)は1981年に絶滅を確認されましたが、外国から持ち込まれたつがいのトキが佐渡の自然に戻されて繁殖に成功したそうですね~。トキは学名も「ニッポニアーニッポン」という日本の美しい鳥です。巣の中でヒナが動く様子を映像で見ましたが、佐渡の皆さんが温かく見守っていらっしゃる姿が素敵でした。無事にニッポニア―ニッポンという種がたくましく復活を遂げてくれることを心からお祈りしたいと思いました。新暦の冬至は十二月・子の月で易経の地雷復000001という卦を配します。下に一陽が復活する意味で、一陽来復という四字熟語の語源になっています。新たな生命の発祥を示し、発展の兆しが芽生えることにも通じます。初心や夢や本心の願いなども一陽ですね…
十二月は新年を迎える年越しの月。種を次世代に残すことがとても大事なように、一年励み働いた収穫の種子となるものを、それぞれが来年につなげるための大事な年替わりなのですね。いろいろ身辺ごとを整理してすっきりし、住居を掃き清め、神棚や仏壇を整え、お飾りをして新年を迎える準備が日常の仕事に重なりますから、それは忙しいのは当然なのでしょう。
私の記憶では大晦日から一夜明けた元旦は静寂に包まれていたように思います。商店は全て戸を閉めて、お年玉をもらっても何も買えませんでしたし、元旦は神仏へのお賽銭以外にお金を使うと一年貧乏すると教えられました。いまだに極力守っていますがこの点はあまりご利益を実感できたとはいえませんが、まずまず元気ですので感謝です。
お節料理もお祝い膳ですが、普段炊事で忙しい女性たちが正月くらいのんびりできるように、三が日はお雑煮しか煮炊きしないのだとも聞かされ、儀礼の年始客も元旦は訪問しないものと教えられました。
子供たちにも新しい装いが何かしら用意され、何か凛とした静寂に包まれた元旦の朝を懐かしく思います。時代が進んでも節目の伝統行事を子供や孫たちに伝えていくことは、種を残すことに似て大事なことなのではと思う師走の一日です。
「占」という文字のルーツをさぐってみます。
白川静先生の『常用字解』には、卜は亀の甲羅の裏側にナツメ型(楕円形)の穴をつくり、そこを焼いて表面にできた卜型のひび割れの形。その形で卜(うらなう)。口は神への祈りを入れる器の形。神に祈って卜い、神意を問うことを占うという…とあります。
別の言い方をすると、亀の甲羅や動物の骨を焼くと卜字状にひびが入ります。そのひび割れの卜形を見てシャーマン(王)が神意を読み取るので卜うとなり、そのご宣託を口で民に伝えたので、卜(うらない)を口で伝えることから「占」という文字が生まれました。
その卜(占)いは神意であり絶対的なものであるから、占には「しめる・もつ」などの意味が加わります。独占→独り占め、占領→ある場所を独り占めにする、占有→何かを独り占めにするなどの言葉になります。神意はシャーマン(王)だけが受け、その言葉は絶対だったのですね。
亀卜と言えば、紀元前1400年ごろの殷の甲骨文字が知られています。殷墟で発掘された多くの甲骨には文字が刻まれており、大半が卜(占)に関するので、その甲骨文字を卜字ともいいます。
占うことは選ぶことであり、選という意味は道を選ぶこと、撰もえらぶですが、人の手で良いものを選ぶので、○○賞の撰者などといいます。
人が前に進むために何かを選ぶことは不可欠の作業です。目覚めてから眠るまで、何を食べる、何を着る、誰と会う、どこへ行く、何をする、行き方はetc,能動的にも受動的にも日々選ぶことで人は一日を過ごしています。
そのような意味では、占うことは誰でもすることで、皆占う人と言えるでしょう。
日々の指針や道を選ぶための道標を求め、未来に繁栄と安寧を願い、賢明な生き方を求める心が様々な占の方法の探究に発展していきました。
易は、神意にも通じる天地自然界の法則を、数理的、哲学的に探究していく過程で確立されてきたものです。
11月よりフェースブックを始めました。
ご覧いただき他のご友人を紹介していただけたら幸せです。
松山怜佳 啓山・易学塾代表
三年前の正月に熱海の温泉に行ったおり来宮神社にお参りしました。
そこには樹齢二千年を超える樹木がそびえていました。その木には仙人伝説があり、昔その地を修めていた殿様が、幕府に対して不始末を犯し、その代償を支払うための資金に充てるため山の木の伐採を命じました。
ある一本の大木を切ろうとした時、「この木はこの地の守り神であるから切ってはならない」と白髪白髭の仙人が現れました。殿様はその木を伐らず、そこに社を建てご神体として祀ったのが、来宮神社の由来と記憶しています。細部の記憶は不確かかもしれませんが…そのような伝説でした。
樹齢二千年の古木の根元は大人三人で手を広げても届かないような太さでしたが、見上げると木の上の方に細い新しい枝葉が縦横に伸び、小さな若葉がちらほらと若草色の芽を出していました。そのときは「生きているんだな~」と感心したくらいなのですが…今、干支数の周期を知って思うと、あの若葉は1980年前の同じ月日の干支数と同じ生まれ日だったのですね。二千年という年月を経た樹木だからこそ生まれた同じ日生まれの若葉です。
樹木の枝葉の剪定や人生の様々な省きは、強い生命を残すため、より良く生きるために必要不可欠でもあり、日々の食事に他の命をいただくことは生存のための摂理です。自然界の様々な淘汰の現象は避けられません。易は五行の土の要素に、変化なくしては前進できない関門を置き、進化変身するための試練を与えますが、結果として時には滅びに至ることもあります。
不可抗力なことや予期せぬ災難は諦めるしかないかもしれません。とはいえ、私利私欲の殺生や戦いで命を奪われるほど理不尽な滅びはありません。身勝手な理由で人の命を奪うことはどれだけ罪深いことかと思います。戦いに一時勝利して満足し、結果どれだけ繁栄したところでまた滅ぶときが来ます。繁栄と衰退は繰り返すと易の真理は説き、それ以前に歴史が証明しています。
ならば何をしても無駄というのではありません。自分を知って過去を把握し、未来に向かい誤りを修正し、より精神的進化を促すことが易が説く道理です。そして未来に描いた目標に向かい、今日を大切に生きることが、より良い明日を迎えることになるのだと思います。予期せぬ出来事に巻き込まれたり、さまざまなアクシデントもありますが、せめて自ら滅びの道に陥らないように、できるなら賢明に生きていくことは大切と思います。
啓山・易学の「天命・人命・地命」の干支数は、たった一つの年月日の命数であり、自分を知るための道標となるものです。
そして日々の食事、「大事な命を生きるために他の大事な命をいただく」ので、両手を合わせ「いただきます!」というのですね。自分でつくり一人で食べると忘れがちになりますが、他の命をいただく「いただきます!」ならば、忘れてはいけない大事な言葉と思います。