F-12 聖人・賢人・小人・愚人

易経によく登場する君子という言葉は、現代でも聖人君子という表現で使われることがあります。でも使い方は「聖人君子じゃあるまいし…」というように、私は普通の人間だからという否定的な表現に用いられるようです。それだけ聖人君子は特別で、少ないということの例えとも思えます。

辞書を引くと聖人と君子、あるいは聖人君子は徳も知識見識も兼ね備えた理想的な人物を差すとあります。花でも梅・竹・蘭・菊は四君子といい、画題としての最高の位に置かれています。

賢人はどのような人かというとやはり辞書によれば、知識が豊かで徳のある人で、聖人に次ぐ人とあります。竹林の七賢人を描いた中国の絵を見たことがありますが、お酒でも清酒は聖人というのに対して濁り酒を賢人・賢酒ともいうのでお酒は本来聖人賢人らしく飲むもので、酔っぱらうと小人・愚人になるのかなと…

次に小人はというと、器量が小さく、人徳が少ない小人物とあり、愚人に至れば文字通り愚かな人、愚者と定義されています。

易の説く聖人・賢人・小人・愚人も大体似たような扱いですが、貴賤の位や身分を示すものでもあり、もう少し違うニュアンスが込められ、数で説くとより具体的な見分け方ができます。

陽を1、陰を0に置くと、易の八卦は、天111・沢011・火101・雷001・風110・水010・山100・地000となります。

易は陽が奇数、陰は偶数で示します。奇数の最小数は1ですが、1は太極数で特別な数として除外すると、奇数の最小数は3になり、偶数の最小数は2となります。

陽の奇数は剛健で知性的、発展上昇へ向かう数ですが、創造の天を示す奇数は発展の原動力である男性的な欲望であるともいえます。

陰の偶数は柔順で終息へ向かう数ですが、包容する大地を示す偶数は母性に代表される陰徳・仁徳を示すものともいえます。

八卦に奇数3と偶数2を当てはめ男女で見ると面白いことが分かります。

天111=333=9(男・父 )   沢011=233=8(女・小女)

火101=323=8(女・中女)   雷001=223=7(男・長男)

風110=332=8(女・長女)   水010=232=7(男・中男)

山100=322=7(男・小男)   地000=222=6(女・母 )

天の9は万物を創造する天数で易経を見ると陽の爻は9で示されます。初九・九二…

地の6は万物を包容する地数で同様に陰の爻は6で示されます。初六・六二…

天地・父母から生まれた子供は三男三女ですが、発展の欲望にあふれる奇数7(男)の中身は徳を示す偶数2が二つ、欲望を示す奇数3は一つです。

反対に偶数8(女)の中身は徳を示す偶数2は一つで、発展の欲望を示す奇数3が二つです。どうも易の陰卦である女性は逆に欲望の方が徳に勝ると出るのですね。

この数で聖人・賢人・小人・愚人を明確に定義することができます。

①   聖人は知性にあふれ徳も同等に備えた人物。

②   賢人は知性はあるものの、徳の方が勝る人物。

③   小人は徳はあるものの、欲望の方が勝る人物。

④   愚人は徳もなく、知性もない人物。

となります。①と④は八卦の表現外の数になり、もう常人ではないレベルといえそうです。そうすると人は7か8の人、賢人と小人に二分されるといえます。

周囲の人を眺めると、人はある時には賢人となり、ある時には小人となるようで、しいて言えば日常が徳と欲望のどちらが勝るかで賢人と小人の区別ができると思います。

私自身を言えば日々小人と賢人の間を行きつ戻りつしているようで、賢人になり切れない未熟な人間のように感じます。

皆さんもこの尺度を参考に、腹が立つときは寛大に陰徳を発揮する賢人となり、欲望や羨望に身を焦がす時には「なんとも小人だなあ」と達観してみるのはいかがでしょうか。

そうして達観していると寛容・寛大な陰徳が徐々に勝ってくるように思います。

人は陽の天の力で生まれて、最後は陰の地に包まれて眠るのですから、段々欲望が無くなって陰に帰るのが自然なのかもしれません。

F11 易の言葉 鼎の軽重を問う

F11 鼎(かなえ)の軽重を問う

鼎は、食物を煮るために用いた金属の器ですが、神に捧げる供物を煮たことから神器でもありました。

古代国家では鼎が国の威信の象徴とされていましたが、BC2000年ころ古代の夏王朝の始祖・禹王(うおう)が、全国から銅を集めて九つの鼎を鋳造させ、王室の宝としたことに始まります。

夏王朝を滅ぼした次の殷王朝は戦利品である鼎を継承して国の宝とし、さらに次の周の時代に引き継がれて長く国の安定と権威の象徴とされました。鼎を受け継ぐことはその国家の安定と価値を示す象徴だったのです。

易の卦は火風鼎101.110(かふうてい)が、革命の後の安定を示す意味を鼎に表現しています。

通常鼎は三本足で、「立つ」という動きのある奇数の最小数を示し、西洋でも三本の矢、あるいはくさびや三角形のピラミッドパワーなど、三は最も安定する数としています。

「鼎の軽重を問う」とは、はるか昔の群雄割拠したころの話しです。晋に勝っておごった楚の荘王が、周から伝わる九つの鼎の大きさや重さを聞いただした故事を引用して、国家の安定と価値の象徴であり宝である鼎の軽重を問うとは、宝である鼎を軽んじる心か、統治者に取って代わろうとする、おごった心の表れであるとして、大変無礼な行為の例えに使われます。

現代に例えれば、資産や代々伝わる家宝について軽々しく聞いて値打ちを測るような人物でしょうか。そこから人の実力を疑い軽く見ることや、あわよくばうばい取って代わろうとする邪心に例えています。

そういえば、この指輪いくらくらいするの?とかやたら値打ちを聞く人いますよね。

どうせ安物でしょうと思って聞くのか、あなたより私の方が似合うわよと思っているのか、いずれにしても失礼なことなのでしょう。

F-10 旅…郷に入れば郷に従え

前回の観光に続き、旅を象徴するのが易経56番目の火山旅101.100です。
文字通り旅を象徴する卦です。現代は「旅=楽しい」というイメージが強いのですが、易経の書かれた時代に旅から連想するものは、それこそ水杯を交わして出発するような難事業でした。
交通手段や止まる宿舎なども整っていない上に、見知らぬ土地や見知らぬ人々の様々な言葉の違いや風習の違いの中で、旅人の不安と孤独は想像を絶するものだったでしょう。

「旅」の卦の旅人から連想するものは、居の定まらぬ不安定な状況や愛する者から離れる別離と孤独の寂しさです。
旅に象徴される孤独で不安定な状況にある時は無理な行動は禁物ということでしょう。
そこで身を守るためには「郷に入っては郷に従え」と万事受け身で対処することの教えです。またある所でたまたま厚遇されても、旅の途中であることを忘れずに目的や理想を守っていくことが大切だと説いています。

人生は旅のようでもあり、その途中では孤独や不安や失意に襲われることがあります。そんな時は無理に動かず受け身に徹して対処すること…それが「郷に入れば郷に従え」という教訓を生みました。
そして目的や理想を忘れずに守っていけば、やがて道が開け前に進む時がくるという、長い人生の旅にも例えられます。

現代の旅といえば、余暇を楽しむ娯楽的な意味合いが濃いと思いますが、「郷に入れば郷に従え」という言葉は、現代にも生かされるべき「安全な旅」のルールではないでしょうか。
知らない土地や知らない人々の暮らす中を旅するのですから、その土地の人々が大切にしているものや習慣を冒さず、極力迷惑をかけず嫌うことをしないというのが最低のマナーと思うのです。

日本へ来られる旅行者向けに注意を喚起する立て看板が各地で立てられているようですね。我々も旅する時は、郷に入れば郷に従う意識を持ち、その土地や人々を敬い親しみ、様々な体験を通して良い思い出となる旅をしたいものです。

F-9易の言葉 「観光」国の光を観る

易経20番の風地観110.000は物事の観方を説く卦です。王の卦ともいい、指導者の資質を説く卦でもあります。
人の上に立つ人に求められる大所高所から観ることを大観といいます。また同時に下から見上げるとどう見えるかという観点も大切で、これを仰観といい、上に立つものは範となるような行動を示すことが求められます。

古代から国を治める王や支配者が、国内を巡行視察することがよく行われていました。
公式に行列を作って巡行すれば、どの地域でも責任を担う人は汚いところを隠し良いところ、自慢できるところを見せようとするものです。
そこで隠密に調べるために間者が派遣されたり、暴れん坊将軍や水戸黄門のように身分を隠して真実を見極め、悪人を懲らしめるという痛快な物語も生まれました。

古代の王の巡行は、国の光・威勢を観るための視察が目的で、これが観光の語源です。
現代では観光は物見遊山のような娯楽的な響きがありますが、昔の巡行は相当の日月を費やした大事業だったのでしょう。
賢明な王は大観し仰観し、高所から表面の光を見るだけでなく、民の目線に立ち影を見ることで確かな国の光を見届けていたのだと思います。反対に暗愚な王は物言遊山の気分で仕立てられた威勢に満足し、民の苦難を見過ごして滅びを速めていったのでしょう。

影の濃さは光を際立たせるものです。光輝かせる影の深さを知ること、光を生む民の苦難を察して、民を思い天に祈りをささげる姿を示して、民の心を鎮め安らがせることが、観光のもたらす成果といえました。

中国では旧暦の正月・春節を迎え日本にも多くの旅行者が訪れているようです。「爆買い」だけでなく、素晴らしい哲学や言葉を生んだ国の誇りを忘れず、日本をより深く知るための観光をしていただけたらと思います。
私もその地の歴史や特産物の生まれた経緯などを知ることが旅の楽しみの一つですが、観光の語源を知って尚その思いが深くなりました。

F-8易の言葉 「咸臨丸」

咸臨丸は江戸幕府がオランダに依頼して建造した蒸気機関を積載した軍艦につけられた名前です。咸臨丸は1860年に遣米使節団の随行艦として日本初の太平洋横断を果たしたことで歴史に名を残しましたが、幕末から明治維新のころに活躍した勝海舟がこの使節団を率いた艦長でした。

勝海舟以下九十余名の遣米団には通訳に中浜万次郎(後にジョン万次郎)や慶応義塾を創設した福沢諭吉がおりました。
この咸臨丸の名は勝海舟が易の言葉から名づけたと伝え聞きます。

咸臨は咸応=感応し臨む意味で、易経の19番目の地沢臨000.011の初爻にある「咸臨す。貞なれば吉なり」から、上下が心を一つにして正道に臨むという思いでつけたのか、また易経31番の沢山咸011.100の説く、新世界に…「感応し恋する思い」もあったのではないかと思えます。

咸臨丸が地沢臨と沢山咸から一字ずつ取ったのか、地沢臨の「咸臨す」から取ったものかは分かりませんが、この遣米団に随行できた福沢諭吉は、これからは英語の時代だと気づいて早くに学んでいたため、実地に体験できると大喜びしたそうです。

それは仙台藩から武器を買うよう預かった大金を、全て原書の購入に充ててしまったほどで、膨大な書物を持ち帰り自身の塾生に原書を用いて熱心に授業を行ったそうです。

勝海舟や福沢諭吉等が米国で様々に啓発され大志を抱き帰国したすぐ後、1868年に起こった戊辰戦争をきっかけに、三百年に亘る江戸幕府は終焉を迎え、時代は大きな革命期「明治維新」へと移行していきます。