三年前の正月に熱海の温泉に行ったおり来宮神社にお参りしました。
そこには樹齢二千年を超える樹木がそびえていました。その木には仙人伝説があり、昔その地を修めていた殿様が、幕府に対して不始末を犯し、その代償を支払うための資金に充てるため山の木の伐採を命じました。
ある一本の大木を切ろうとした時、「この木はこの地の守り神であるから切ってはならない」と白髪白髭の仙人が現れました。殿様はその木を伐らず、そこに社を建てご神体として祀ったのが、来宮神社の由来と記憶しています。細部の記憶は不確かかもしれませんが…そのような伝説でした。
樹齢二千年の古木の根元は大人三人で手を広げても届かないような太さでしたが、見上げると木の上の方に細い新しい枝葉が縦横に伸び、小さな若葉がちらほらと若草色の芽を出していました。そのときは「生きているんだな~」と感心したくらいなのですが…今、干支数の周期を知って思うと、あの若葉は1980年前の同じ月日の干支数と同じ生まれ日だったのですね。二千年という年月を経た樹木だからこそ生まれた同じ日生まれの若葉です。
樹木の枝葉の剪定や人生の様々な省きは、強い生命を残すため、より良く生きるために必要不可欠でもあり、日々の食事に他の命をいただくことは生存のための摂理です。自然界の様々な淘汰の現象は避けられません。易は五行の土の要素に、変化なくしては前進できない関門を置き、進化変身するための試練を与えますが、結果として時には滅びに至ることもあります。
不可抗力なことや予期せぬ災難は諦めるしかないかもしれません。とはいえ、私利私欲の殺生や戦いで命を奪われるほど理不尽な滅びはありません。身勝手な理由で人の命を奪うことはどれだけ罪深いことかと思います。戦いに一時勝利して満足し、結果どれだけ繁栄したところでまた滅ぶときが来ます。繁栄と衰退は繰り返すと易の真理は説き、それ以前に歴史が証明しています。
ならば何をしても無駄というのではありません。自分を知って過去を把握し、未来に向かい誤りを修正し、より精神的進化を促すことが易が説く道理です。そして未来に描いた目標に向かい、今日を大切に生きることが、より良い明日を迎えることになるのだと思います。予期せぬ出来事に巻き込まれたり、さまざまなアクシデントもありますが、せめて自ら滅びの道に陥らないように、できるなら賢明に生きていくことは大切と思います。
啓山・易学の「天命・人命・地命」の干支数は、たった一つの年月日の命数であり、自分を知るための道標となるものです。
そして日々の食事、「大事な命を生きるために他の大事な命をいただく」ので、両手を合わせ「いただきます!」というのですね。自分でつくり一人で食べると忘れがちになりますが、他の命をいただく「いただきます!」ならば、忘れてはいけない大事な言葉と思います。