G-10 焚書坑儒と尺度の由来

 始皇帝は12年という短い在位期間の間に、皇帝を補佐する最高位の丞相であった李斯(りし)の意見を重用して、厳しく冷酷な法に基づく支配を強め、人々を恐怖で従わせて権力を一手に掌握することに懸命でした。次々と改革として行った中に暴挙として歴史に語り継がれる「焚書坑儒/ふんしょこうじゅ」があります。

焚書は医学・農学・卜占の書以外の書物を全て燃き尽くしたこと。

坑儒は方士(学識者)四百六十余人を、法に反する罪と称して生き埋めにしたことです。

それは戦乱の時代には諸子百家として各地を遊説した学識者が、天下を統一した今は国を乱す根元になるという理由で、思想の弾圧と言論統制として行われた、いわゆる「愚民政策」でした。

一説に医学・農学・卜占の書を各二冊、計六冊をもって万事の尺度としたことから、秦は全ての測りの基本が六尺であったといいます。六尺は一間・180センチとして現代も普通に使われています。

また始皇帝は不老不死を切望して、東方の海上にある蓬莱山には仙人が住み、不老不死の妙薬を持つという、方士の徐市(じょふつ)の話を信じ、無垢の男女の童児数千人と多くの財宝に五穀の種を持たせ、送り出したと記されています。

日本では徐市=徐福とされています。徐福が数千人を従えて当時の日本に上陸したという徐福伝説が、九州や出雲や紀州また関東にあります。個人的には、古代日本の成り立ちと共に興味深く思っています。

長い歴史の中で、権力を掌握すると、都合の悪い書物や記録の焚書が行われたことは当然あり得たことです。近代中国でも現代の焚書坑儒といわれる出来事がありました。中国最古の歴史書という史記も、漢の武帝という強大な権力者の下で書かれた書物であり、その言葉は背景にある支配体制の影響がないとは言えません。

司馬遷(しばせん)はありのまま自由に書けたのだろうかと考え、歴史を深読みすると色々推考してしまいます。秦の後の漢の成立以降が史記の大半を占めますが、私はここで史記の言葉を終了しようと思います。

日本書紀や古事記も含め古代の歴史書は、その言葉の裏に秘められた事実を想像し、推論をしながら読むのは楽しい事です。真実でも虚実でもそれが歴史であり、何より当時の人々が私たちと同様に生きて、喜び怒り哀しみ楽しんだ人生があったことは確かな事と思います。

史記の言葉は徳間書店の史記全八巻の訳文を参考にいたしました。他にも北方健三先生やコミックでは横山光輝先生の史記全集などが読みやすいのではと思います。

史記の言葉をお読みいただきありがとうございました。

また新たなテーマで書いてまいりますので、よろしくお願いいたします。

G-9史記の言葉 始皇帝の名の由来

紀元前221年に六国を制圧して全土を統一した「秦」の初代の王は「始皇帝」としてその名を歴史に残しました。

皇帝の称号や、皇帝自らを「朕・ちん」と言うようになったのは始皇帝が始めです。史記には皇帝の名の由来について次のように記されています。

天下を統一した秦王は、最高の官位である丞相(じょうしょう)等に「私が統一を望んだわけではないが、諸国の王が約束を守らなかったために、仕方なく討伐した結果平定するに至った。いたらぬ身ながら六国の王を討ち、天下に太平を開くことができたのは祖先の加護によるものだ。この功績を後世に伝えるために、この際、王の称号を改める必要がある」と述べました。

そこで高官である丞相の王綰(おうわん)や李斯(りし)、馮劫(ふうきょう)の三人は協議して秦王に進言します。

「かの五帝と称される方も、その領土は千里四方に過ぎず、周囲は諸侯や蛮族が多数存在しても統制することはできませんでした。五帝以前の太古には、三皇と称される天皇・地皇・秦皇が君臨されていました。その中で最も尊い存在は秦皇と言われています。そこで秦王は秦皇と尊称を変え、王命を制、王令を詔(しょう・みことのり)と改称し、天子である王の自称を朕(ちん)となされてはいかがでしょうか」…

これを聞いた秦王は「では秦皇の皇と五帝の帝を合わせて「皇帝」とすることにしよう。その他の事は皆の案の通りで良い」と応えました。そして「朕は最初の皇帝になるので「始皇帝」と称することにする。朕の後は順次二世、三世と称して千万年の後、まで無窮に伝えるものとしよう」…

このようにして始皇帝が誕生し、以後二千年、中国を統一した王たちは皇帝を名乗り、自らを朕と称するようになりました。

これが史記に書かれている皇帝の称号が誕生した由来です。

後世の研究者の異説ですが、始皇帝は2メートル近い大男であったといい、現中国の西方の地域の人であることから、黄色人種ではなく白人種ではなかったかと推論し、また三皇の皇の文字は古代にはなかったという論点から、白人の王から白と王の合成した皇の文字ができたのでは、という説を読んだことがあります。

今からおよそ2100年前に書かれた史記ですが、史記の訳者は始皇帝の称号について「秦王が合理主義者でまた尊大な面の両極端をもつ人物であったことを物がたる」と記しています。始皇帝は在位11年、以後三世合わせてわずか15年で秦は滅亡してしまいます。

G-8史記の言葉  まず隗(かい)より始めよ

戦国の七雄といわれた燕(えん)の噲(かい)王は、すんでのところで国を滅ぼしかけた世間知らずの人で、私利私欲に走る宰相・子之(しし)の言いなりで、国家は弱体化していました。

そこで斉国は燕の太子平を煽り内乱を起こさせます。いよいよ燕が乱れ切ったとき、斉王に今こそ攻める時だと進言したのがかの孟子です。こうして斉は大軍を送り燕を責めて大半の国土を奪います。その時燕の噲王は死に、国を混乱させた子之は国外に亡命してしまいました。

その後二年の間、国君が空位のままでしたが、ようやく太子平を後継ぎとして迎えることができました。

太子平は昭王となり、滅亡しかけた国を立て直すために、謙虚な姿勢で手厚く厚遇すればよい人材が集まると考え、郭隗(かくかい)にその考えを明かします。

「我が国を内紛に煽り国が亡ぶ寸前に追い込まれたが、今の国力では恨みも晴らせない。私は何とかして優れた人材を集めて国を再興し、先王の恥をすすぎたい。どうか隗先生のお力で優れた人材を見出してくれまいか」

郭隗は「ぜひとも賢人を招こうとするなら、まずこの私、隗(かい)から始めなさい。 私以上の人物がうわさを聞いて遠方からでも駆けつけるでしょう。」と答えます。
昭王は、さっそく郭隗のために宮殿を改築し、師と仰いで優遇しました。

すると魏からは、後に三国志でも有名な諸葛孔明(しょかつこうめい)が手本としたという楽毅(がくき)が、斉からは、陰陽五行を体系化した始祖でもある鄒衍(すうえん)が、趙(ちょう)から劇辛(げきしん)がというように、後世に名を遺した賢人が争って燕に集まってきました。

こうして昭王は優れた人材を得て国力を回復し、秦・楚・三晋(魏・趙・韓)と手を組み、斉に侵攻し、斉を大敗させ、大半の国土を燕の勢力下に収めることができました。

昭王の時、多くの優れた人材を得た燕は最も隆盛でした。
このことから、燕の優れた施策として伝えられた言葉が、「まず隗より始めよ」です。
「大事を成すなら、まず手直にできることから始めよ」ですが、和訳では「言い出したものがまず実行せよ」という意味にも用いられます。
優れた人の言葉は、人の口から、あるいは文書となり、また後世の人の手本となり、何千年後の今日にまで伝わるものなのだと驚きます。史記には今の人たちが何気なく使っている言葉が沢山あります。残された言葉の由来の話と共に、とつとつとお伝えできればと思います。

G-7史記の言葉 人材を選ぶ五つのポイント

古代中国の春秋戦国時代(BC770 ~BC220頃)は、血縁で結ばれた氏族や貴族に変わり、有能な官僚が政治の表舞台で活躍するようになった革命的な時代でした。

彼らの多くは有力者の食客となり、直接君主に結び付く道を探り、理想の実現のために貴族勢力と命がけの闘争を繰り広げる一匹狼でした。

その一人、魏の文候に仕え、やがて王の片腕となった李克(りこく)のお話です。

李克は孔子の高弟である子夏に学び、慣習に習う過去の政治から、文章に表した法律を制定して政治を行い、法治主義の先駆者となった人物の一人です。

ある時、魏の君主・文候は誰を宰相に登用するべきかと李克に意見を求めました。

「李克先生は、貧しい家には良妻が必要で、乱れた国には名宰相が必要だと教えてくれました。宰相の候補者は魏成子(ぎせいし)と翟璜(てきこう)の二人しか考えられないが、どちらを選ぶべきでしょうか?」という文候の問いかけに、李克は「卑しい身分の者がおえら方の事に口は出すな、身内のもめごとに他人は口を出すなと言います。私は身分も低く、まして他人ですからお応えできません」と応じます。

そして文候自ら考えるべきだと、人物を鑑定する五つのポイントを説きました。

①   不遇のとき、誰と親しくしていたか。

②   富裕なとき、誰に与えたか。

③   高位についたとき、誰を登用したか。

④   窮地におちいったとき、不正を行わなかったか。

⑤   貧乏したとき、貪り取らなかったか。

以上の五条件に照らして申し分ない人物を選べばよろしいと伝えました。

文候は納得し、すぐに心が決まりました。選んだのは弟でもある魏成子でした。

一方の翟璜(てきこう)は李克を文候に推挙した人でしたので、これを聞き激高して李克に詰め寄りますが、このとき李克は、「私を推挙したのは派閥でも作り高位に付くつもりでしたか?私はあなたと魏成子の二人のどちらが良いかと聞かれ、人物鑑定の五つの要点を指摘しただけです。この条件に当てはめれば魏成子になると思っていました」と応じます。

さらに「魏成子は俸禄の9割を人に与え、残りの1割で生活し、その結果、東方から、卜子夏(ぼくしか)・田子方(でんしほう)・段干木(だんかんぼく)の三人の人材を迎えました。この三人はわが君文候が師と仰ぐ方々です。あなたが推挙した私を含めた何人もの方は文候の臣下として仕えていることを考えれば、どちらが上か自ずと明らかではないですか」

翟璜(てきこう)は、それを聞き、後ずさりして李克に再拝し、失礼を詫びて李克に弟子入りを願ったというお話です。

貧乏な家にこそ良妻が必要で、乱れる国には名宰相が必要、という李克の教えもさることながら、派閥を作って出世する気などないと言い切る、一匹狼を貫く李克の人物鑑定法は現代でも大いに参考になります。

貧しい時も高潔で、貧富に左右されない優れた人達が周囲にいる。

豊かな時には私財を有能な人材のために役立てる。

高位についた時、私利私欲や派閥に偏らず有能な人を登用する。

こんな人達に世の中を動かしてもらえたらと思います。

これは二千数百年前の話しですが、今毎日の報道を見る限り、窮地に陥らなくても、不正は行われ、貧乏でなくても貪り取り、人は同じ過ちを繰り返すばかりで、文明の進化と人の資質の進化は比例しないものだと痛感します。

 

参考・引用文献 徳間書店発行 『史記Ⅱ』

G-6史記の言葉 「鶏口となるも牛後となるなかれ」

激動の時代を「弁論」でのし上った策士・蘇秦の物語です。

紀元前800年ごろにはじまった春秋時代は、多くの賢人たちを輩出し、諸侯はこぞって参謀役として召し抱え重用しました。孔子も一時「魯ろ」に召し抱えられますが、その後良い君主と巡り合わず、結果的に各地で学問を説き多くの弟子を育てました。

周王朝は有名無実となり、諸侯同士の勢力争いは激化の一途をたどり、やがて戦国時代へと移行していきます。

戦国の七雄と言われる韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕の諸国は周囲の小国を制圧し国土を拡大していきます。旧来の秩序が崩壊し、生活の基盤を失った文士たちの多くは、あわよくば宰相に昇り詰める夢を抱き、官僚として政治に参画することを願い、各国を訪れて「遊説」し、弁舌を披露しました。これが「策士・説客(ぜいかく)」と呼ばれる人々で、君主への縁故を求めて各地の有力者の下に寄宿したため「食客」と呼ばれました。
有力者にとっても有能な食客を抱えることが勢力の強化にもなりました。

この食客から戦国時代の歴史を動かした大物政治家が多く生まれました。その一人歴史に名を遺した大物策士・蘇秦(そしん)の話です。
蘇秦が諸国遊説の果てに行き着いた学問の書は、周を建国に導いた名宰相、「太公望」の著した『陰符』という兵法書でした。自信を得た蘇秦は各国に兵法を説いて回りますが、ことごとく断られ、ようやく燕の君主文候に会うことができました。
蘇秦は、強大化している西方の秦に対抗するには隣国の同盟が必要だと説き、文候の命を得てその使者となり、友人の張儀の助けも借りて、秦を除く六国同盟を説いて回りました。この張儀も後世蘇秦と並び称される大物策士でした。

その過程で大国・韓の宣恵王に会い、これほどの大国が強大な秦を恐れてむざむざ従えば牛後と侮られる。「鶏口となるも牛後となるなかれ」と説いて、宣恵王を憤らせ、国力を挙げて秦と戦う決心をさせました。

このようにして成った同盟策も、やがて斉の違反により破たんしていきますが、蘇秦の名声は衰えず、燕の易王に招かれ、斉に奪われた土地の奪還を頼まれます。蘇秦は巧みな弁論だけで斉王に土地を返還させることに成功しますが、燕に戻ると、蘇秦を曲者と貶める者の諫言から官位を失います。しかしここでも弁論を駆使して易王を感服させ、前以上に厚遇されています。

各国の君主に重用された蘇秦は、時には詭弁ともいえる論法を用いています。しかし先を読み、人の本心を読み、人の心を動かす言葉に大変優れていた人物でした。

刺客に刺されて死を間近にした時、死体を道具にして犯人捜しの策を進言し、最後は死後の名誉まで守り抜きます。

大物政治家とは偉大なる策士であるということなのです。

遊説・策士など政治の世界でお馴染みの言葉もこの時代に生まれました。