G-6史記の言葉 「鶏口となるも牛後となるなかれ」

激動の時代を「弁論」でのし上った策士・蘇秦の物語です。

紀元前800年ごろにはじまった春秋時代は、多くの賢人たちを輩出し、諸侯はこぞって参謀役として召し抱え重用しました。孔子も一時「魯ろ」に召し抱えられますが、その後良い君主と巡り合わず、結果的に各地で学問を説き多くの弟子を育てました。

周王朝は有名無実となり、諸侯同士の勢力争いは激化の一途をたどり、やがて戦国時代へと移行していきます。

戦国の七雄と言われる韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕の諸国は周囲の小国を制圧し国土を拡大していきます。旧来の秩序が崩壊し、生活の基盤を失った文士たちの多くは、あわよくば宰相に昇り詰める夢を抱き、官僚として政治に参画することを願い、各国を訪れて「遊説」し、弁舌を披露しました。これが「策士・説客(ぜいかく)」と呼ばれる人々で、君主への縁故を求めて各地の有力者の下に寄宿したため「食客」と呼ばれました。
有力者にとっても有能な食客を抱えることが勢力の強化にもなりました。

この食客から戦国時代の歴史を動かした大物政治家が多く生まれました。その一人歴史に名を遺した大物策士・蘇秦(そしん)の話です。
蘇秦が諸国遊説の果てに行き着いた学問の書は、周を建国に導いた名宰相、「太公望」の著した『陰符』という兵法書でした。自信を得た蘇秦は各国に兵法を説いて回りますが、ことごとく断られ、ようやく燕の君主文候に会うことができました。
蘇秦は、強大化している西方の秦に対抗するには隣国の同盟が必要だと説き、文候の命を得てその使者となり、友人の張儀の助けも借りて、秦を除く六国同盟を説いて回りました。この張儀も後世蘇秦と並び称される大物策士でした。

その過程で大国・韓の宣恵王に会い、これほどの大国が強大な秦を恐れてむざむざ従えば牛後と侮られる。「鶏口となるも牛後となるなかれ」と説いて、宣恵王を憤らせ、国力を挙げて秦と戦う決心をさせました。

このようにして成った同盟策も、やがて斉の違反により破たんしていきますが、蘇秦の名声は衰えず、燕の易王に招かれ、斉に奪われた土地の奪還を頼まれます。蘇秦は巧みな弁論だけで斉王に土地を返還させることに成功しますが、燕に戻ると、蘇秦を曲者と貶める者の諫言から官位を失います。しかしここでも弁論を駆使して易王を感服させ、前以上に厚遇されています。

各国の君主に重用された蘇秦は、時には詭弁ともいえる論法を用いています。しかし先を読み、人の本心を読み、人の心を動かす言葉に大変優れていた人物でした。

刺客に刺されて死を間近にした時、死体を道具にして犯人捜しの策を進言し、最後は死後の名誉まで守り抜きます。

大物政治家とは偉大なる策士であるということなのです。

遊説・策士など政治の世界でお馴染みの言葉もこの時代に生まれました。

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