G-5史記の言葉 会稽の恥(かいけいのはじ) 臥薪嘗(がしんしょうたん)

この言葉は「呉越同舟」という熟語になるほど、仲の悪い例えになる呉と越の争いの中で生まれた言葉です。呉越までの流れがあり少し長い文章になります。

夏から殷へ、殷からまた王権が移行され、周が建国しました。

当初周王朝は徳治政治を行い国威を高めていましたが、徐々に足元が揺らぎ始め、十一代厲王(れいおう)が暴政をしいた頃から、過去の例にもれず急速に衰退の道を辿ります。

王の権威が揺らげば当然地方の諸侯の力が台頭してきます。こうして後に春秋戦国時代と呼ばれる、群雄割拠する戦乱の世に突入していきました。

周王朝が形骸化する中で、勢力争いを繰り返す春秋12列国があり、その大半が黄河流域に位置していました。はるか西方には後に中国を統一する始皇帝の国・秦があります。

そして南方には中国大陸のもう一つの大河揚子江があり、上流に楚があり、揚子江の下流域に呉と越の両国がありました.

呉の国王は夫差といい、楚から亡命した伍子胥(ごししょ)という名宰相がいました。建国の祖は太伯といい周の文王の叔父にあたる人物で、呉太伯は古代日本に深い関わりがあるといわれます。

また越王勾践(こうせん)は夏の禹王の末裔であり夏王朝由来の国で、勾践にも名宰相范蠡(はんれい)と文種がいました。

呉王夫差は父王を越王勾践に殺されたことで深い恨みを持ち、薪(まき)の上に寝てその痛みで復讐の念を絶やさなかったといいます。

越王勾践が范蠡(はんれい)の忠告を聞かず、復讐に燃える呉を滅ぼそうと画策したとき、いち早く察した呉王夫差に一斉攻撃をかけられます。大敗した越王勾践は会稽山に五千の兵と逃げ込みました。

勾践王は、范蠡の忠告を聞かなかったことを悔いて、国を滅ぼして戦うか否かを范蠡に問い、「恥を忍んで呉王に仕え国の存続を訴えよ」という進言に従います。

呉王への使者に立ったのが文種です。しかし呉の宰相伍子胥に勾践を生かせば後悔することになると反対され、一度呉王は降伏を断りますが、もう一人いる呉の宰相、欲の深い伯嚭(はくひ)に賄賂と美女を贈り再度仲裁を頼みます。伯嚭(はくひ)は言葉巧みに呉王を説得しました。欲深い人間を懐柔しやすいのは今も昔も同じです。

こうして越王勾践は妻と共に范蠡に付き添われ呉王夫差の人質・奴婢となり、苦渋の日々を送ることになります。この出来事から「会稽の恥」という言葉が生まれました。

しかし文種に「殷の湯王、周の文王も幽囚の身に耐えて、その後に王者となったのだ」と励まされ、再起の時を願い、熊の肝を吊るし、それを嘗めてあらゆる恥辱や苦難に耐え、会稽の恥を晴らす機会を待ち続けました。

呉王夫差は薪の上に寝て、越王勾践は肝を嘗めて復讐の念を持ち続け目的を果たしたことから、「臥薪嘗胆・がしんしょうたん」、目的を果たすために苦難に耐えるという言葉が生まれました。

越王勾践は范蠡(はんれい)の忠告を退けて敗戦し、やがて呉は伍子胥(ごししょ)の忠告を退けたことで越に滅ぼされました。戦乱の世の王達はこのような賢人を参謀として望み、老子・孔子・墨子など諸子百家と呼ばれる、思想家や兵法家が活躍しました。

紀元前800年ころに始まる春秋戦国時代は、易経などが確立され、東洋哲学の源流を創った多くの賢人を輩出した時代でした。

長い文をお読みいただきありがとうございました。

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