G-8史記の言葉  まず隗(かい)より始めよ

戦国の七雄といわれた燕(えん)の噲(かい)王は、すんでのところで国を滅ぼしかけた世間知らずの人で、私利私欲に走る宰相・子之(しし)の言いなりで、国家は弱体化していました。

そこで斉国は燕の太子平を煽り内乱を起こさせます。いよいよ燕が乱れ切ったとき、斉王に今こそ攻める時だと進言したのがかの孟子です。こうして斉は大軍を送り燕を責めて大半の国土を奪います。その時燕の噲王は死に、国を混乱させた子之は国外に亡命してしまいました。

その後二年の間、国君が空位のままでしたが、ようやく太子平を後継ぎとして迎えることができました。

太子平は昭王となり、滅亡しかけた国を立て直すために、謙虚な姿勢で手厚く厚遇すればよい人材が集まると考え、郭隗(かくかい)にその考えを明かします。

「我が国を内紛に煽り国が亡ぶ寸前に追い込まれたが、今の国力では恨みも晴らせない。私は何とかして優れた人材を集めて国を再興し、先王の恥をすすぎたい。どうか隗先生のお力で優れた人材を見出してくれまいか」

郭隗は「ぜひとも賢人を招こうとするなら、まずこの私、隗(かい)から始めなさい。 私以上の人物がうわさを聞いて遠方からでも駆けつけるでしょう。」と答えます。
昭王は、さっそく郭隗のために宮殿を改築し、師と仰いで優遇しました。

すると魏からは、後に三国志でも有名な諸葛孔明(しょかつこうめい)が手本としたという楽毅(がくき)が、斉からは、陰陽五行を体系化した始祖でもある鄒衍(すうえん)が、趙(ちょう)から劇辛(げきしん)がというように、後世に名を遺した賢人が争って燕に集まってきました。

こうして昭王は優れた人材を得て国力を回復し、秦・楚・三晋(魏・趙・韓)と手を組み、斉に侵攻し、斉を大敗させ、大半の国土を燕の勢力下に収めることができました。

昭王の時、多くの優れた人材を得た燕は最も隆盛でした。
このことから、燕の優れた施策として伝えられた言葉が、「まず隗より始めよ」です。
「大事を成すなら、まず手直にできることから始めよ」ですが、和訳では「言い出したものがまず実行せよ」という意味にも用いられます。
優れた人の言葉は、人の口から、あるいは文書となり、また後世の人の手本となり、何千年後の今日にまで伝わるものなのだと驚きます。史記には今の人たちが何気なく使っている言葉が沢山あります。残された言葉の由来の話と共に、とつとつとお伝えできればと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です