B2 天と天命

天は宇宙であり、無限の創造変化を営む偉大な力・はたらきです。古代から人が探究し続けてきたのは、この偉大な天の力でした。
東洋では無限の天の創造主として人格化し、仰ぎ尊ぶ対象として天帝・上帝と呼び、独特の天人合一観が生まれました。西洋でも天を偉大なる父であり神として神格化し、宗教的思想につながっていきます。DSC_0167-1
易はこの天の偉大な創造と変化の神秘的な力を、理屈抜きの絶対的なはたらきとして感じ取り、その法則を探究する過程で発展していきました。
その絶対的なはたらきを人の天命といい、人の生命は天命の肉体的はたらきであり、意識や精神のはたらきは性命と捉えます。命は背くことのできない絶対的なはたらきです。日本でも古代から自己の存在や生活に絶対的意義を会得した人を命(みこと)といい、尊い人を表してきました。煩悩に流され、疑念を持ち、背いてしまうこともある我々普通人は命(みこと)の名をいただくことは叶いませんが、それでも人はすべて生まれながらに天命を受けているのですから、みな命・みことの域に達する素質はあるのだともいえます。
生まれた時の「命名」はまさに、天命を受けて生まれた絶対的に意義のある子に、俗世の呼び名を与える儀式のようで、おろそかにできませんね。
人の人生は、小さな自己から始まりさまざまな経験や学びを通して天命(自己)を発見し、会得していく旅のようです。
易は天命を感じ取り、把握して、よりよい「性命」となるための道しるべとなるものでしょう。知性などの人の能力は自己を探求しさまざまな素質を発見し、物ごとの因果関係を知り、善処する力となるでしょう。
人生のさまざまなできごとは、複雑に絡み合って現象となりますが、その中にある因果の関係や素質などを「数・すう」といいます。数は無限の創造変化の天のはたらきの動的な変化でもあり、数のもたらす現象や作用が命運・運命といえます。

尾瀬の秋の空

B1 易を学ぶことの意義

DSC_0205易のルーツは混沌としていますが、古代中国において体系化されてきた歴史があり、占筮に用いられてきたことからも、古代の焚書を免れて多くの書物や文献に著され伝えられています。
易は天地自然界の無限の造化のはたらきを説いており、天文・医学・農学などさまざまな科学の発展や、人の生活や生き方などに応用活用されてきました。歴史上の王たちはこれを政務のはかりとし、今でいう大臣や官僚などには必須の学問であったと認識されます。
これらの事実からも易は文明の礎を担っていたことは明らかです。
易を学ぶことは自然を学ぶことであり、そこに生きる生命の自然なあり方を学ぶことでもあります。
果ては宇宙自然界の生命の循環の法則であり、「無限の生命」と「限りある生命」の意味を教えてくれます。
易の叡智は賢明な人生を生きる知恵でもあり、その根底にあるのは生命の尊さ大切さを知ることと思います。
長い歴史の中で近年では非科学的なものとして扱われているようですが、偉大な易の研究者を多く輩出した中国でさえ、徹底的に古典が排斥されたできごともあり、易を知る人は少ないといわれます。
逆に西洋では自然科学の分野などで注目され、易は東洋数学であり偉大な哲学として認識されています。
陰陽相対性理論は一元の太極へ結びつき、太極は、現代の電子や素粒子などの理論物理学でいう、超ミクロの世界、極限を示す原物質の追究と重なります。また1が2となり4となり…無限に展開する究極のマクロの世界を表しこれを天といいます。
易を学ぶことの最も大きな意義は、易は宇宙自然の法則であることです。

 A1 人生は「七転び八起」何度目かの復活の日

 

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人生には悲喜こもごも色々な出来事がありますが、失意のどん底に陥るような経験をすることもあると思います。振り返れば私もそんな経験が何度かありました。

そのつど何とか乗り越えてきたものの、人生後半になっての挫折はそれなりの実績を築いた後のことで、ダメージも相当深くなります。気持ちが沈み、川底に呼ばれているような弱気も生まれ、自信が崩れていく恐怖や喪失感に苦しみました。

しかし、過去の失意、挫折や喪失などの経験はそのつど学びになっていたことも確かです。失ったものの大半は縁が切れてよかったのだとさえ思えました。とはいえ数年前の喪失感は社会的人生を全否定されたようで、再起への気力が芽生えることも簡単ではありませんでした。

そんなころ書店でぼんやりと本を眺めていて、ふと書棚の上の方に目線を上げたところ、チベット仏教の叡智『心の治癒力』という本が目にとまりました。「なぜ私たちは苦しむのか?」と本の帯にあり、「なぜあなたは苦しいのか?」と自分に問われているように思えました。チベット仏教に伝承される心と身体の癒しについて、対処法、実践法を含め分かりやすく説かれており、ボロボロの精神状態であった私は、ワラをもすがる思いで買って帰りました。

心の治癒力は日々のさまざまな実践から覚醒する…瞑想もその一つですが、朝起きて眠るまで日々何気なくやっていることから心身が癒され覚醒していくことを改めて実感し、また思い出すことができた一冊の本との出会いでした。

絶対失えない、尊いと信じていたものが私の思い込みでもあり、多くの思い違いも理解しました。

それからしばらくは読書三昧の毎日で、ネットの中古本マーケットには相当助けられました。その過程で二十年以上関わってきた易を、もう一度勉強しなおす機会と時間を得ることができたことは幸いでした。もやもやと何かが見えてきそうな状態だった2011年1月26日の明け方ふと目が覚めました。頭の中には数字が浮かんでいます。干支数でした。それから複雑な閏年の計算をしながら十数時間エクセルに干支数を打ち込み、何度かの組み換えで完成したのが年月日の干支数を一度に導く干支暦です。新暦、旧暦、何歴を問わず綿々と続く干支暦ほど正確に日の要素を導くものはないと気付きました。現在仲間の協力を得て紀元前から四千年余りの干支数暦ができました。理屈からいえば紀元前3671年というユダヤ歴元年も容易に干支数に換算できます。

学んだ真理を実践することの大切さを身に染みて実感し、易の叡智を誰でもが実践できる方法を模索していた時でしたが、そこに干支数を用いることに気付いた忘れられない日です。そして干支のもつ意味に改めて感嘆しました。

歴史に残されたさまざまな事象、人物などを干支数に照らして読むと、生き生きとその時代や人がよみがえってきます。もちろん自分自身のこともその弱点を含め改めて納得できました。そして易学三昧の三年余りの日々から得たことは、生ある限り「生きる」ことの価値と生命の尊さを再認識したことでした。

易は万物万象の変化を説いています。この世の何ものも命ある限り留まることなく変化していくもので、滅びに至るのも繁栄に至るのも、大きな時の流れの結果であり、繁栄も挫折も滅亡さえも必ず終息し変化します。

一刻もやまず時は刻まれ、季節が変化するように、易は天地自然界に生きる人も、命ある限り時の変化の中で前進していくことを教えてくれます。人の運命は人生に他なりません。

私も変化を受け止め、静と動を繰り返し生ある限り前進しようと思います。過去を受け入れ、願わくばこれからは少し賢明に…

2013年7月吉日