B7 十干・十二支の由来

十干は甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十の符号です。

中国の古い記録『呂氏春秋』には「大撓(たいどう)甲子をつくる」とあり、『漢書・律暦志』にも、「黄帝、大撓(たいどう)をして甲子をつくらしむ」とあるため、この大撓(たいどう)が干支の作者とされています(暦読み解き辞典参照)。黄帝は中国神話の三皇五帝の一人で、伝説上の人物です。他にも易の始祖伏犠が弟子の徐史明に命じて創らせたという説もあります。十干・十二支の数のルーツを遡ればメソポタミア文明に行き着くというのは自説ですが、メソポタミアは文明発祥の地とされ、高度の農業技術や天文・造船などの高い技術や知識があったことが明らかになっています。海・陸のルートを通じてアジアにもその文明が伝えられていたと思えます。古代中国に発祥する十干は、古代の農業を適切に行うための目安、暦の原型であったのではと思われます。人の指は両手で十本あります。片手は五、両手で十を表すのは五進法の元ですが、人の両手の指が文字のない古代の数を数える基準であったと思えます。十干は後に河図(天の絵図、易の根源図)に伝えられます。北の空は北極星を軸にして回る北斗七星があり、北半球のアジアでは、この北斗七星の動きを手かざして測り、季節をつかみ、種をまく時期、刈り取る時期などを予測していたのでしょう。。

さらに十二支(地の絵図『洛書』に描かれる易の根源図)は、およそ12年(11,86年)で天を一周(公転)する木星(歳星)の運行を基準にして、西から東に運行する木星にかわる仮の星・「太歳」を設け、太陽と同じに東から西に移動させた十二の位置に見合う符号をつけ、子・丑・寅…としたのが始まりであると伝えられます。あまりにも古代の話ですが、様々な書物に記される十干・十二支は、天体の運行を読み、農業や生活を営むため、人の知恵が生み出した暦の始まりでした。

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