B12 易の陰陽と暦の二十四節気

日本では現代でも二十四節気の季節感が浸透していますが、特に冬至・夏至と春分・秋分の四節気を二至・二分といい四季の中心に置いています。
古代、月の満ち欠けの変化を基準にして創られた太陰暦は、太陽を公転する地球の実際の季節にずれが生じるため都合が悪く、その欠点を補うために、太陽暦の要素を二十四の季節変化に表して二十四節気を設け、太陰太陽暦を創りました。別名陰暦・旧暦とも呼ばれ、紀元前14~11世紀ころの殷代から、近代に至るまで永く使われていました。
このような暦本や陰陽五行思想などが日本に伝わるのはさらに千数百年後の飛鳥時代の頃のこと、紀元602年推古天皇の時代です。
日本の干支の起源を遡ると、聖徳太子が604年を甲子(干支数1)とし、さらにその三年前の601年辛酉(干支数58)から遡る、一蔀(ほう=1260年)前の紀元前660年を皇紀元年と定めました。現在の建国記念の日(旧紀元節)は、皇紀元年(紀元前660年)を神武天皇即位の日として、太陽暦に換算して2月11日に定めたといいます。
暦は東西を問わず古代から施政者の大変重要な研究課題でした。日本でも平安時代には賀茂家や安倍家が陰陽道の大家として登場します。紀元861年には渤海(朝鮮半島)から唐の『宣明暦』が伝えられ、以後1684年に渋川春海(映画化もされた『天地明察』の主人公)が日本独自の暦『貞享暦』を編纂するまで823年間に亘り使われていました。江戸時代は暦の改変が以後四回行われ、最後の天保暦は精緻な太陰太陽暦として完成されています。
暦の二十四節気は一年を二十四に区分して季節の基準点としており、実際の季節感にもマッチしているため大変重宝で、年中行事や農事暦に活用され、干支と共に庶民にも広く浸透して永く使われて来ました。
これらの古代から伝わる暦の知識は、明治5年以後太陽暦が用いられ、様々な西洋化により日常生活から消えていきました。更に終戦後の教育改革により知識としても除外されたため、戦後生まれの方達には特になじみが薄くなっています。…B13へ続く

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