B13 易の歴史ー1

五行や八卦または干支などは、易を実際に活用するときには理解しなければならない大事な要素です。
易は天地自然の法則を導くものですが、季節の巡りや生命の循環に合わせ、万物の変化を五行の循環や八卦に重ねて読み説けば、八卦も五行も干支もその源流は同じといえます。
願い年月を経て、多くの賢人の手により体系づけられてきた易の歴史を辿ってみます。
古代における易の歴史は、東アジアの夏・殷・周の王朝にまつわる伝説となっています。
四千年前の夏王朝以前に、創世記神話の三皇五帝の一人「伏犠」がおり、夏王朝初代の王「禹」と共に、八卦や五行十干の元となる天地の絵図「河図・洛書」を著した人物として伝えられています。(ブログB8・9)
河図を基にした天盤図は「先天図」といい、洛書を基にした天盤図を「後天図」と呼びます。
また後の紀元前1000年ごろに殷に代わる周王朝が建国し、文王(西伯)と息子の周公旦により文字による解説がなされ、周王朝が続く中で易は発展していきます。周代後半の紀元前800年ごろの春秋戦国時代には諸子百家と呼ばれる、多くの学派学者により探究され広まっていきます。
春秋時代の後半、紀元前551年に儒教を起こした孔子が生まれています。
哲学的な歴史から見たほぼ同時代の世界の三聖人は、仏教の始祖「釈迦」・ギリシャ哲学の始祖「ソクラテス」・そして儒教を唱えた「孔子」といわれます。そして今に伝わる「易経」は、創世記神話にある伏犠と周の周公旦と孔子の現中国古代の三聖人の手により著されたと伝えられますが、これも思想統制の厳しかった秦代や、後の漢代を経て、紀元1200年ごろの南宋の時代ころまで、多くの学者や思想家の手が入っているとみるべきでしょう。いかなる時代でも古代の聖人の手によるものとすることで重んじられ、易経などの書物が生き残ったとも思えます。
群雄割拠して諸侯が勢力争いを展開した紀元前の戦国時代から、ほんの百年前の近代史が始まるまで、易は王の学問であり、施政者の知恵学でした。諸学者や賢人の多くは、王や諸侯に仕えていわゆる参謀のような役割を担っていたことは歴史書の中に多く記されています。易はこのような時代の流れの中で、東洋哲学として発展し、体系づけられてきました。(B14へ続く)

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