E16易経を読むー14 養生とは・重荷に行き詰まる

27〕山雷頤(さんらい・い)100001 欲望を加減して真の養生に励む

頤は「あご」で、噛み砕くことから養うという意味があります。

易の卦100001を見ると両側の陽の間に陰が四つあります。陽は上あごと下あごを表して口の中の食べ物をよく噛むことを示します。噛む時は上あごは止まり(山)、下あごが動き(雷)ますので、「山雷頤」は食物や物ごとはよく噛む、噛みしめることで人を養う力となることを説きます。そこで頤は「養う・養生」を表します。

頤の文字が使われた世界文化遺産に登録された中国の名園「頤和園」は、元々は皇帝の居所として造られたもので、皇帝の養生所ともいえますね。

頤=あごは口にあり、食べることは人を養うエネルギーとなり、学問や様々な経験をすることは人の精神を養う力となりますが、そのためには、何事も早呑みこみせず良く噛みしめ、噛み砕き、味わうことが大切です。

食べたい欲望のまま食べ、絶え間なく動き、際限なく欲望をかなえようとすればどうなるでしょうか…

病は口から入り、災いは口から出るという言葉があり、口が慎み深くきれいであれば災いを避けられるということで、賢人は欲望を加減して健全な生を養うため、言語を慎み飲食を節制するとあります。

人が心身共に健康に生きるために必要なもの、健全に生きるために必要なことを考えることは大切です。よく噛まず早く食いすると満腹の加減がわからなくなり、よく噛み腹に収まるのを待つと、食べ過ぎになり難いのも本当です。

養生は生を養うこと、生命にエネルギーを与えることですから、食べるだけでなく、止まる・考える・休む・眠るなどは全てが養生の時間で、腹に収めるための時間です。

また人の欲望は発展の原動力ですが、一旦腹に収め、よく吟味し見極めて欲望を加減をしないと、多くの問題を抱え過ぎてバランスを崩す厄介な事態になると、次の沢風大過(たくふうたいか)の卦が示します。

 

28〕沢風大過(たくふう・たいか)011110 荷が重すぎてゆき詰まる・欲望を省く

易の卦011110を見ると、山雷頤とは逆に両側に陰があり中に陽が四つで、大過は発展した問題(陽)が多すぎて支える力が弱い(陰)象形です。大過は濁流(沢)に沈む木(風)を表しています。

積み荷や定員がオーバーして沈みかけている船や、細い柱に似合わない重く立派な屋根瓦を乗せて柱がゆがんでいる家や、老人が少女をめとるようなサスペンスな状況を想像してください。

どれも身の丈に合わず・身の程を知らずアンバランスで四苦八苦しそうです。

そうならないように、前の山雷頤は欲望を加減するために養生の大切さを説きました。気付いたときにはあとの祭りですが、船が沈んでも、家が崩壊しても大変なことになります。

こんな時にどうすればよいのか…

沢風大過は、アンバランスを生じて危険な状態に気付き、乗り切るための知恵を説きます。

互卦の乾為天(乾為天・111111)は陽気が満ちて発展しすぎた状態で、満つれば欠けることを暗示し、急ぎ対処しないと危ないと警告しています。

起きてしまった状態を緩和することが急務で、食べ過ぎなら一日断食をする、草木なら枝葉の剪定や害虫の駆除などでしのげますが、人は一度つかんだ栄光や利権に執着するので省くことは容易ではありません。

例えば荷重オーバーの船なら、損害を受けても積み荷を捨てて人命を救うことが大切なはずです。人だけなら皆が極力荷物を捨てて船を軽くします。これを迷い誤ることは恐ろしいことで、目先の私利私欲が勝って現状に固執するようなら、船もろとも沈み、家もろとも崩壊します。

こうなる前に勇猛果敢に毅然として欲望を捨てること、放棄することが最善の解決策なのだと説きます。

アンバランスな状況は他にもあります。会社なら上と下をつなぐはずの中間が力をもち過ぎて行き詰まる。また組織が複雑に膨らみ過ぎて上の意志が末端に伝わらないなど、上はかじ取りに四苦八苦し、下は苦しみ喘ぐ状態を生みます。一度得た栄光や築いたものを失うことは実を切るように辛く難しい問題ですが、その欲望を自ら省くことができれば、最悪の状態を回避することができると教えます。

賢人は、毅然として失うことを恐れず、栄光を捨てることに悩まないとあります。 奥深い言葉です。

 

 

E15 易経を読むー13 〔25〕自然の流れに従う 〔26〕真の実力者とは

〔25〕天雷无妄(てんらいむぼう)111001
時の流れに順応し従う時がある

无は無、妄は望、无妄は無望ですが、人生には予期せぬ出来事がしばしば起こり、期待通りにはいかないことがあるという意味です。また妄は偽りも意味していますので、无妄は偽りがない真実とも読めます。

突如雷鳴が轟き予期せぬ土砂降りに見舞われたときどうするか…自然には勝てず、雷雲が過ぎ去るまで安全な場所で静かに待つことが安心です。もし無理に進もうとすれば落雷の危険を負うことになります。
そこで天雷无妄は、予期せぬアクシデントが起きたときは極力動揺せず、ひとまず状況に順応し成り行きに応じて対処する道を説きます。

例えば干ばつや洪水などの天災に遭遇したとき、苦難に耐えて取り組んでいく民の姿があります。
人生には予期せぬアクシデントや苦境が訪れることがありますが、状況が修復し改善するまでは、苦しみに順応して耐えるしかないことがあります。
そこで互卦の風山漸(ふうざんぜん)110100が徐々に漸次進むしかない。静かに努力し力をつけていけば必ず大空をはばたく時が来ると励まします。

因果関係を説く錯卦は地風升(ちふうしょう)000110。地下の芽が地上にすくすくと伸びていく上昇の卦です。しかし新芽が大いにに進展するために必要な三つの条件があるといいます。それは①季節(時の利) ②養分や光(実力養成) ③良い土壌や環境(後援者、支持者を得る)の三つです。成功の条件、発展の法則ともいうのでしょうか。そこで賢人は時に順応して万物を養い育てることに努めるのです。

綜卦の山天大畜(さんてんだいちく)100111はその三つを大いに蓄積している真の実力者の卦です。天雷无妄は、予期せぬ出来事は時として起こるが、蓄積のない状況では無理に動かず、時流に応じて成り行きを見ることを説きます。无妄は無謀の戒めでもあります。そして漸次実力を養い三つの力を蓄えて真の実力者となることだと、次の山天大畜が説きます。

〔26〕山天大畜(さんてんだいちく)100111真の実力者となるために

山天大畜の対照的な卦が〔9〕の風天小畜110111で、蓄積が小さく大を留める力が弱いことを示し、大畜の方は蓄積が大きいので楽に小を留めることができます。

大畜は「大いに田が茂る」大豊作を示し、蔵に穀物が山積みされた状態です。

偉大な君主は大いなる蓄積を独り占めすることはなく、能力と実績に応じて広く分け与え、また常に有能な人材に門を開き、それを育成し養うことを惜しまなかったとあります。

大望を抱くなら、また大事を成すなら、まずは自分自身の実力や徳を養い、資金や人材を蓄え、物心両面の充実に努めてこそ、時に応じる力を持つ真の実力者となるのです。

互卦の雷沢帰妹(らいたくきまい)001011は、純粋でない政略的な男女の結びつきに例えて、利害損得による作為的な人の結びつき戒めて注意を喚起しています。純粋に有能有益な人を見極め、育成し養うことが大事なのですね。

因果関係を説く錯卦は沢地萃(たくちすい)011000です。山天大畜が大いなる蓄積を持つ真の実力者となる卦なら、沢地萃は水辺に草木茂るように、水場には渇きをいやしに自ずと人が集まる象形です。人が集まればそこに物のやり取りが生まれて交易が発展して繁栄がもたらされることを意味します。徳と実力が備わる人は水場のようで、自ずと人が集まり繁栄し、繁栄すれば蓄積が増えることになるという因果関係です。ある先生の易経の訳文に、沢地萃を「砂漠のオアシス」と説く名訳がありました。

 

〔解説〕

物事が順調に進展している時でも、予期せぬ出来事が生じることがあります。
それを突然の落雷に例えているのが天雷无妄の卦です。
芽が出ようとしているときに、地上をアスファルトで舗装されたら、芽には予想外のアクシデントです。以前「ど根性大根」が話題になりましたが、コンクリートのすき間に力強く成長した大根に、生命の強さたくましさを感じ取って、妙に愛しく感動したものでした。災害や人災なども含め、人は予期せぬ苦難に襲われることがありますが、個人の力が及ばない時は当面順応し耐えてしのぐしかないことがあります。

大きな災禍でなくても「人生は无妄のごとし」で予期せぬ出来事が起こるものです。

無理な時は順応して時流に逆らわないことが大切で、状況が回復すればまた新たな芽が伸びていく時がきます。人も苦難に順応する中で徳を磨き実力を養い努めれば、多くの人が集まり繁栄する時が来るのだと説きます。

時の利・実力・支援者が整う発展の状況です。

そして山天大畜に至り真の実力者となれば、その繁栄を大いに蓄積し、独占することなく能力に応じて広く公平に配分し、常に人材を育て養ったので、大事を成すときもまた有事のときも大いに力を発揮することができるのです。また繁栄を謙虚に感謝して、常に予期せぬ出来事に備え、不穏な動きに対して警戒を怠らないように心掛けるのも真の実力者です。

大きな国の状況から会社や小さな組織まで通用する、発展の条件のように思います。

 

 

E14易経を読むー12〔23〕衰兆を察して備える〔24〕一陽来復、吉兆を育む

 

〔23〕山地剝(さんちはく)100000 衰兆を察して危難に備える。退き際を知る

剝は、剥ぐ(はぐ)、剥ぎ落とすこと。陰気が上昇して陽の力が限界に達しています。今になって発展を望んでもどうにもならず、退き時を測り大難にならないよう対処することが大切と教えます。

季節は収穫を終えた晩秋の頃、新たな種をまく時期ではありません。

剝のいう衰兆とは、組織的には秘かに失脚を画策され、身体的には秘かに重い病が進行し、金銭的には楽観的に散財し有事の備えができていない状況です。

卦象は上卦の山が浸食されている状況で、まだ表面的には一陽が食い止めていますが、遅からず最後の一葉が落ちて冬が訪れます。

このような状況は収穫後の季節のように一見一段落したのどかなムードがありますが、今後は新たな実りは望めず、蔵の中の収穫が冬を越すための全ての財産です。
人も好調な時の努力は繁栄を導き、多くの実りや収穫を獲得して終息に向かえば、十分な備えがあるので寒い冬も暖かく、安らぎと休息をもたらします。
それでも冬は予期せぬ災難が降りかかることが多く、有事に備えるさらなる余力が大切です。

余力とはあなたの人生の蔵の中身、お金など財産だけでなく良い人間関係・家族円満・健康などでしょう。

季節の晩秋は一見豊かで、危機感も少なく冬支度にもまだ焦らないのが現実です。

互卦の坤為地000000は保存と包容、育成に吉で、発展的な行動の扉は閉じられます。そこで内面を磨き、心を育てよというのですが、天地重合するときでもあり、陰陽男女が睦みあい、子宝(春の芽)を授かる意味もあります。

賢人は衰兆を察して下が少しでも楽になるよう速やかに配慮して、地位を守るとあります。そうできるなら天地和合して共に耐えて春を待てるのですが…

現代なら厳しい冬を乗り越えるために何をするか…今ある物を吟味して十分な蓄積をし、あるいは若い力を育成し託して退く時に備え、体の不調を放置せず、人や家族に絡む諸問題に決着し、あらゆる気がかりに対処しておく…そして静かに時期(春季)を待てば、また陽気が復活すると錯卦の地雷復000001が教えます。

全ては巡りの中でおきる終息の結果です。究極、無一文で仕事もないなどの惨状であるとしたら、相当の覚悟をして、守るものは「命」そのものでしょう。今日を招いた原因を考え、他を恨まず、潔くSOSを発信し、助ける手があれば感謝して握り、何としても命を守るのです。

そして誤りをリセットして初心に戻り、新たな希望の芽を育む心に切り替えることです。
良い事に日本には八百万の神々がおり「捨てる神あれば拾う神もあり」なのです。

〔24〕地雷復(ちらいふく)000001一陽来復、原点回帰、育成の時

復は復活を意味し、破壊の後の復興や新たな建設が始まるなど、土の中で春の芽=吉兆(雷)が育っている様です。季節は冬至を示し、天地の創造する易は地雷復に始まります。山地剝の一陽(落ちた実の種)が、次世代の生命として復活しますので「一陽来復」です。

行き詰まりや苦しみを抱えた心に一筋の光明が差し、新たな希望が生まれます。でもまだ冬の真中にあり、焦って外に出れば枯れてしまいます。機を見て元気に発動するために、計画を立て、学びや修養に励み、準備に励み力を蓄えておく時期です。互卦も坤為地000000で、まだ発展の扉は開いていません。

古代、君子は冬至の日には斎戒沐浴して身を清め、遊びや俗事に関わらず、欲望を慎んで安静を保ち、陰陽の定まるのを待ったとあり、冬至は初心に返り、正しい道に戻り、原点回帰するための厳粛な日だったのですね。

そこで地雷復は厳しさや困難に耐えて、内面を鍛え磨き、強い体質を育成する好機で、新たな計画を始動し達成へ導くために、強い種子を育てることが大切です。

社会的には、志を受け継ぐ若い力が台頭して復活の希望が生まれます。復縁や仲直り、失くし物発見などに吉とされるのも吉兆を示しています。

次世代の希望となる土の中の種子は、やがて春に地上に芽を吹き、すくすくと枝葉を伸ばして開花の夏を迎えます。
また人は困難を乗り越えて新たな希望を育み、それを実現するために果敢に行動し、努力して夢を叶えます。
行動力や成長力がみなぎる春を過ぎ、夏を迎えて目標の成就する開花の時を錯卦・天風姤111110が示しますが、下に陰気が宿り、熟成に向かい新たな苦労が始まります。
成功の後は慢心や油断が生まれやすく、自ら滅びのきっかけをつくることも多いのです。

衰退や生みの苦しみを経験したことを忘れず、初心の志を保ち、同じ過ちを繰り返さないことが大切です。毎年の冬至の日に身を清め、原点へ返ることを戒めた古代の賢人は、人は常に慢心や油断をしやすいことを知っていたのでしょう。

〔解説〕

春夏秋冬、季節は巡り、春が来れば冬の寒さを忘れるものです。

花が咲き秋に実りを収穫して、また余力のない冬を過ごさないために、成果を蓄積することの大切さを説く山地剝。
また厳しい状況にあっても志を立て、希望を育くんで静かに復活する力強さを説く地雷復。

この二つの卦は、終わりと始まりを説いています。

終わり良ければ全て良しといいますが、一日の終わり、一ヵ月の終わり、一年の終わり、そして十年、二十年…六十年…と繰り返す人生の節目の終わり方は、また新たな次の始まりに通じています。
大みそかに終わり、元旦に始まる一年の節目を過ぎましたがまだ間に合う正月のうち。一年をどう過ごすか、改めて目標をもち、きちんと計画を立てなくてはいけないなと思います。

 

E13易経を読むー11 〔21〕責任と罰について〔22〕繁栄は頽廃を招く

21〕火雷噬校(からいぜいこう)101001責任と罰を明確にして和の道へ導く

噬校(ぜいこう)は噛み合わせること。上卦の火101は歯と歯の間に物が詰まって噛み合わせを妨害しています。互卦の水山蹇(すいざんけん)010100も障害に足止めされると警告します。でも、上卦の火は燃え盛る炎の内面に冷静な徳を秘めており、下卦の雷001は旺盛な活動力で、噬校は太陽と雷鳴のような力強さを表します。

そこで噛み砕くとは、ひるむことなく責任と罰を明確にして果敢に障害を排除するとあり、それぞれの爻は、色々な肉をかむことに例えて、足から首まで、枷(かせ)がどこにはめられるかという罰の程度が示されています。

とても解釈が分かり難い卦ですが、君子は刑罰を明らかにして法令を整え公正に施行したとありますので、要は責任と罰について明確にするとは法令を明らかにすることで、法により果敢にそして速やかに采配することが、上下がかみ合い和合する道という、厳しい国造りの状況が見えてきます。

因果を説く錯卦は水風井(すいふうせい)010110で、井戸の水が枯れ、釣瓶も壊れて人が去っていく状況から始まります。そこで行き詰まった時は寒泉(かんせん)を掘り起こせという言葉があり、もう一度井戸を修繕し清らかな水を湛えた井戸に戻せば、自ずと人が集まり繁栄の時が戻ります。そして蘇えった井戸の水を独占せず、衆人に分け与えることと教えます。

古代から人は水場を求めて集まり、集落を形作っていきました。「市井(しせい)」はこの卦から生まれた言葉で、人が集まり住みつくことで発展し繁栄していくのですね。

枯渇するような困難に陥ることがあります。その時こそ、自分の中の奥深くにある清らかな泉を探り掘り起こすように、純粋な志をよみがえらせること、そして志を遂げるために、まずは自他に公平であること、そしてルールを明確にして、妨げる者には正々堂々と責任と罰を問う強さが、繁栄を健全に導くために、大切だということなのでしょう。

求めるものを供給して人を集めても、供給が枯渇し困難に陥れば人は去っていきます。例え私欲を捨てて公平に行なうとしても、明確なルールと違反への罰がないと、人は従わないものだというのですが、これが普通の社会なのでしょう。でもこのような経験から善の行動が人の日常に定着し、やがて刑罰のいらない世の中になるのが理想というのですが…なかなか難しそうですね。

 

22〕山火賁(さんかひ)100101文明や繁栄は頽廃を招く。虚飾の戒め

賁は飾ること。困難を克服し繁栄が築かれると、成功者は地位や名誉や財産を得るようになります。山火賁は山を照らす夕日(火)が間もなく沈んで暗くなる状況です。頭上を照らした日は沈み夜が来るのは当然ですが、人が成功で得た名誉などは夕日の輝きだというのです。

そして多くの人は成功し地位や富を得ると外見を華やかに飾り、志も忘れて内面の深み=明徳(火)が失われていきます。夕日が沈むように、繁栄は終息に向かう束の間の輝きで、明日のために余力を残して眠ることが健全な人の暮らしです。でも中には沈む夕日の輝きを維持することに躍起となる人もいて、何とかごまかそうとして、粉飾・文飾・虚飾が行われます。そこで賁は破れるという意味もあります。人も眠らないと壊れますね。また文明も発展し進化すると素朴な生命力が失われて、頽廃的になります。

山火賁は繁栄のときこそ外見の華やかさに捕われず、飾ることなく内容を充実させて、闇夜にうろたえることのないよう対処することが大切という教えです。

互卦は雷水解001010で、雪と氷に閉ざされた寒い冬も、やがて時が来れば雪が解けて春が訪れる。暖かく明るい春を迎えるために、冬支度をして静かに待つ時があると注意を促します。

ありのままに…というヒット曲のフレーズがありましたが、自分を隠さず正直に生きることはとても勇気がいることです。

同様に自然の営みに逆らうことなく、季節に応じ、時に応じて生きていくことは簡単なようで難しく、その時々にやるべきことがあり、変化に応じる備えがないと穏やかには過ごせません。

夕日の輝きに魅了されても、もうすぐ日が沈むことを察知して夜を迎える心構えに変化することが、ありのままに生きる術でしょう。いくら外見を飾っても内容が充実していなければ虚飾の世界です。粉飾・文飾も同様で、沈む勢いは飾っても隠しても止められません。発展と頽廃・繁栄と終息・通じれば窮し、窮すれば通じる自然の摂理に逆らっても、結果として錯卦の沢水困100010という八方ふさがりの枯渇した状況に至ると警告します。

そこで賢人は今やるべきことを察知して速やかに処理し、賛否を測る重要な問題は軽率に行わず、熟慮して時を待つのです…

 

〔解説〕

火雷噬校(からいぜいこう)と山火賁(さんかひ)の二つの卦は、困窮から志を立て、繁栄を導くために強く厳しく行動する時期があること。
そして繁栄の後の油断と慢心を戒め、日が昇る勢いの時にやるべきこと、日が沈む時にやるべきことの違いを説いています。
繁栄に驕り華やかに飾ることは夕日の輝きのようなもの。ともすると陥るのが、「成功すると初心の志を忘れる」「お金がもうかると身を飾り見栄を張り贅沢をする」「外見を維持するために粉飾・文飾・虚飾に陥る」 そして枯渇し困窮しても、「生命の泉を掘り起こせばまた蘇える」「冬を耐えて超えれば必ず雪解けの時が来る」など希望と救いもあり、「窮すれば通じ、通じれば窮す」繰り返しが、易の説く無限の生命の循環の働きです。

変化を受け入れさらにより賢明に進化するために、時に応じ状況に応じてやるべきこと、心構えなどの違いを説いています。

 

 

E12易経を読むー10機を見て動く〔19〕地沢臨、ものの見方〔20〕風地観

〔19〕地沢臨(ちたくりん)000011世に出るために、機を見て敏に動く

臨は元々上位から下位に在るものを見る意味でした。臨席や来臨などの言葉がありますが、本来臨は敬いを込めて使用するもので、このたびは臨席させていただき…などと自分で言うのは恥ずかしい事です。

下卦が二陽となり、植物なら土の中の芽があと少しで地上に発動する希望にあふれた状況です。

そこで、人も世に出るために頑張るのですが、何を頑張るかと言えば、初心の志(地雷復000001)であると互卦が示します。

隆盛であっても、季節感は現在の一月頃のため、まだ外界は厳しく安易に進めば滅びてしまいます。そこで出るタイミングがあり、機を見る慎重さは必要ですが、動く時は俊敏に行動しないとそう長く好機は続かないと教えます。

臨の始め(初爻)に咸臨(かんりん)とありますが、これは江戸末期に勝海舟の指揮の下、福沢諭吉等九十余名の若者が遣米使節として、始めて太平洋を横断した船・咸臨丸の名に使われています。咸は感応することで、大いなる志を抱き感応する同志が、新たな世界に臨む船出にふさわしい船名と思えます。

そして帰国後の勝海舟等は日本の新たな夜明けである明治維新に深く関わることになります。

反対は錯卦の天山遯111100で、退いて難を避ける意味があり、季節は夏の土用、ここを過ぎれば秋です。そこで初心の志は、機を見て敏に正しく実行しないと進展する時機を失うと忠告します。

賢人は目に見えない変化の兆しを感じとり、どこまでも下のものを導き包容することを願うのですが…伸びようとする変化の勢いを止めるのは容易ではありません。

〔20〕風地観(ふうちかん)110000物事を深く観ぬく力。物の観方。

観は単なる見方ではなく、凝視する、奥底まで見抜く観方です。地上に風が吹き荒れる象形ですが、世の中を治める人は八方の風をよく感じて、それぞれに応じて必要な政(まつりごと)を行うべきなのだと説いています。

観光というと今は物見遊山のような響きがありますが、本来、賢明な国王は国の光(繁栄)を観るために領地をくまなく巡行したことから、「観光」という言葉が生まれました。その時に人々の上辺の歓迎を見て安心する様なら賢明な王ではなく、表に出ない人々の苦しみや嘆きをその仰ぎ見る姿から見抜き(上観)、自ら天を仰ぎ人々の災いを除く祈りを捧げます。その姿を衆人が観て(迎観し)、柔順な心を失わず付き随うのだと説いています。

そこで上位の者が台頭する変化の兆しを見抜けないと、自らが剥がされるのだと、互卦の山地剝100000が警告します。また退くべき時を知り終息の時に備えることの教えでもあります。

観の卦は下の陰(大衆)が台頭して上の陽(支配者)を押しのけようという勢いがあります。

いつの世も民の苦しみが極限に近づく時が革命の兆しです。それを知らずに支配者が私利私欲に走り、栄耀栄華を尽くせば大きな革命が訪れるということですね。

因果関係を説く錯卦の雷天大壮001111は、逆に下から陽気が壮んになっている上昇の卦です。どのように壮んな勢いで繁栄を極めても、いつかは負の勢いが台頭してくるものです。でも自分の繁栄のために賢明に努力した日々を思えば、苦しむ人々の改革を望む勢いを想像することは可能です。若い力が伸びてくることは止めようもありません。

そこで別の解釈では、伸びようとする若い人々に深いまなざしを注ぐ良き指導者の姿でもあり、努力や苦しみを見抜く思慮深さにより人々を教え導くことができる人物像といえます。

賢人は奥深い観察眼を働かせ、それぞれの望みや苦難を見抜き、適切な教えを立てて導くのです。

 

〔解説〕

地沢臨000011と風地観110000の卦は天地(180度)逆転した綜卦の関係ですが、どちらも深く変化に応じて行動するというところで共通点があります。

臨は上昇する生命力で、機が熟せば自ずと世に出ていく若い力です。しかし大きな志を立てても、機を測り俊敏に行動しないと、好機は一転して衰退に導かれてしまうのです。また観は逆に熟成した大人の静かな力です。深く観ぬいて、衰退の兆しに早く気付き、自ら率先して模範を示し教え導くことの大切さを教えます。

例えとして、希望にあふれて誕生した玉のような女の子は、やがて可愛い少女に成長していきます。そんな愛娘を見て、見上げるような高見に昇る幸せをつかんでほしいと望むのが親心ですが、幼い時から蝶よ花よと甘やかすと、往々にして年頃になると不純な交友に走り、不良娘にもなりかねません。そのような失敗をしないためにしつけや教育が大事であり、親は正しく道を示すことが大切なのだという話にも共通します。

素晴らしい素質を、道を誤り台無しにしてしまうことはとても残念なことです。また素質を伸ばし教え導く人に恵まれることは幸せですね。

機会を自ら求めていくと同時に良い指導者に導かれることは、未来を大きく開くためにとても大事なことなのだと気づかされます。