お知らせ

インターネットが使用不能になり、修理に出していたパソコンが戻ってきました。 しばらくお休みしてしまったブログを今夜あたりアップしたいと思っていますので、引き続きよろしくお願いいたします。

ご迷惑をおかけしましたが、取り急ぎお知らせいたします。

A10 陰陽で説く「仁」について

仁は人の優れた徳を表す「仁・義・礼・智・信」の五徳の一つです。
仁は他を慈しむ心で、他人に対する愛情や思いやりを示す言葉ですが、これを行うにはまず自分に打ち克つことが求められるという厳しい見方があります。 思いやりや真心なら自分にもあるから、仁徳の実践はしているといいたいのですが、真に他を慈しむには、自分の欲望を捨て去ることが必要といいます。

二つあれば容易に一つを他人にあげられますが、一つしかないときはどうでしょうか。一つしかないものの究極は「自分」であり「命」です。

仁の文字は人に二と書きます。人は他と自分、男と女、親と子であり陰陽の二の関係で成り立つのが人だという見方もできます。また二の中に人を書くと「天」になります。
仁の核となる性質は陰性で、種子の内部にある核(胚乳)や胎児も仁です。天にいただいた自分の中の他の命というような意味ですが、そこで女性を表す陰性の仁は「母性」なんですね。慈母観音というように、他を慈しむ慈愛の情感は陰性の最高の美徳といえますがそれは母性であるといいます。 一つしかない自分の命に代えて子を守る母性愛は、他を慈しむ仁の美徳の象徴です。

欲望は発展の原動力で陽性であり男性を表しますが、男性の中にも陰性があり母性があります。陰性は欲望を内省して省く力や守る力ですが、さらに自分の欲望を捨てて他への慈愛に至る陰性を母性と表します。
易は陰陽が互いに調和することで健全な創造活動が行われることを説き、陰陽の健全な働きが続く限り無限に循環する生命の原理です。
陽と陰の互いに相待ち引き合う関係を男女でいえば、女性の陰徳・慈愛の心を育てるのは男性であり、また女性の慈愛に守られ育まれて健全な男性が育つといえます。
近ごろも子供の虐待や育児放棄や果ては子殺しなどのニュースに接するたび、陰陽が調和して生まれる母性の希薄さに胸が傷み、負の連鎖を心配してしまいます。 大きな陽性は世の中の発展の力ですが、そこに暮らす人々が慈しまれていなければ、他を思いやることも健全な人の情感も育たなくなるのでしょうか。

C9 水無月 六月

水無月は旧暦六月の異称で、文字通りなら水の無い月ですが、現在の新暦六月は旧暦では五月に当たり各地で梅雨入りする季節です。そこで旧暦の水無月は現在の七月で酷暑の季節ですから水無月というのも納得できます。

他にも田に並々と水を張る季節という意味で水張り月というのが水月となり、ミナヅキと発音されて水無月という字を当てたという説があり、これもうなづけます。旧暦と新暦の季節のずれがありますので、現実には大雨が降ることの多い現代の六月は水無月より水月(ミズヅキ→ミナヅキ)説の方がぴったりするようにも思えます。

太陽が黄道上の最北点、北回帰線の真上を通過する夏至(6月21日)は、昼の時間が最も長くなる真夏の到来です。夏は黄金色に熟した麦の収穫期で、冷たいビール(麦酒)が定番です。秋は米の収穫期で、日本酒(米酒)は冬の熱燗が定番ということで、ビールは体を冷やす夏のお酒といえます。日本では宴会の始まりにビールで乾杯というのが多いですが、宴の終わりに冷たいビールを飲むと、酔いが少し冷めてシャキッ!とするように思うのは私だけでしょうか…

十二支では午の月、易の八卦は離=火、五行も火の陽で燃え上がる炎を示し、午(馬)は華やかに堂々と競い合う姿で、競馬界はダービーに燃え上がります。午に木は杵となり、草木の開花現象を表し、杵でつく祝い餅は一家のお祝い事である「内祝い」の象徴です。 十二支の北の極=子と南の極=午を結ぶ線を子午線といい、時刻は午が昼の12時で、午の前を「午前」、午の後を「午後」といい、夜中の0時に始まり0時に終わる一日の時間の中心です。

地球の南北を結び中央を通過する子午線に、一日の中心の時を示す午の刻。 午の中央・中心ということを人生に例えると、天に輝く太陽が頭上に降り注ぐ、華やかな成功と満たされた生活に到達した状況です。易経の「火天大有(101111)」は同じような状況を説く卦ですが、満つれば欠けるのが道理であり、日はやがて沈むことを知って慢心を戒めることも説いています。

とはいえ、六月は夏の陽の光を浴びて、まずは願いの成就に向かって元気に活動できると午月らしくてよいですね。

A9 易経余話 潜竜について

易経は乾=天の卦から始まります。六爻の全てが陽111111で成り立つ偉大な天の創造の働きを示す卦で、次の坤為地000000と共に、六十四卦では別格の役割を担う卦です。
そこで今回は111111の右の1(初爻)の潜竜についてのお話です。

これは竜が潜っている状態で、竜に例える賢人は表だって社会的な活動をしてはならない。
力のある陽竜も今は下に潜んで力を蓄えて時を待つのだ。というような解釈です。
卦を詳しく解説した『文言伝』の訳文に「潜竜とはどういう意味か」と先生に問う師弟の問答があります。
以下は要約ですが、先生曰く、「竜のように極めて優れた徳を備えながら、世間から隠れている人のことを言うのだよ。その人はことさら世俗の悪い風習を変えようともせず、自分の名声を高めようともしない。世間から隠れていても、認められなくても不平不満もない。世間に出て活動するのが楽しい時は、出て徳業を行い、そうすると煩わしいときは世間から去る。そのように志がしっかりとして変えさせようもない。そんな人を潜竜というのだよ」と…
そこで「うーん」と考えてしまいました。

極めて優れているのでもないのに表に出たがり、
世俗の悪い風習には抵抗なく染まり、徳がないのに名声は欲しがる。
認められないと不満を言い、しゃしゃり出て周囲を辟易とさせ、去ってほしいのに容易に去らない人、
世間に結構いそうだなと思ってしまいました。
私自身も未熟な過去の記憶に思い当たることがあり、首をすくめてしまいます。
若ければまだしもそれなりに影響力のある人がこれではちょっと困りますね。

潜竜は、やがて天にも昇る竜のような素質を秘めて、まだ世に出ない若い人にも例えられます。
潜竜との出会いを楽しみに、ことさら名声を望まず、出番があれば誠心誠意働くことを楽しみ、不平不満を言わないことだけはせめて実行しなくては…と、そんなことを思ってしまった潜竜の爻辞です。

訳文引用『中国古典文学大系(平凡社)赤塚忠訳』