A4 メソポタミアと古代日本の類似点-2

書の中で、王朝が滅んだあとの古代シュメール人の一部が、船で日本に渡り、関東に定着したのではと推論しています。現在の茨城県・鹿島神宮と千葉県・香取神宮は海に近く、大小の水郷を挟んで対峙しています。その辺りは、キ・エンギ(葦の沼の地)と呼んだシュメールの民の故郷の景色とよく似ており、故郷の「チバイシ」という地名と千葉という地名の符合にも思わず唸ります。神宮と呼ばれる格の高い神社は、昔、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社でした。伊勢神宮はわかりますが、鹿島・香取は目と鼻の先にあり、しかも関東の地です。なぜなのか不思議です。伊勢神宮が皇統に関係することは確かですが、この二神宮も古代日本のスメラミコトに関係していたのでしょうか…

そして忽然と消えた古代のシュメール人が葦船で世界の海へ、また日本へ渡ったという痕跡を証明するために、驚いたことに残された古代製法をもとに、インドで古代の葦船を復元して、日本へと実際に航海して見せたのです。現実に対馬沖までたどり着き嵐に遭遇して一命を取り留めたという冒険をした方です。新聞にも掲載され、その古代船は平成十一年まで横須賀の「うみかぜ公園」で公開されていたそうです。(残念!見ていません)巻末の航海記録は圧巻でした。関東から東北へさらに西へと、文字や風習・風俗・唄などにも多くのシュメール文明との類似点が残されていることも興味深く、古代のロマンに浸ることのできた岩田氏の書でした。私は他の観点で、易の数との符合をシュメール文明に見出し、その後しばらくシュメール関連の書物に熱中してしまいました。

A3 メソポタミアと古代日本の類似点ー1

『消えたシュメール王朝と古代日本の謎』(岩田明著・学習研究社発行)をご紹介します。東洋の古代史に関心を深め、様々な書物を読んでいたころ出会った本です。それ以前に最古の文字といわれる中国・殷の象形文字(甲骨文字)より古い時代に、楔形文字があり、その発祥がシュメール文明にあるという知識がありました。紀元前七千年~三千年の間繁栄したシュメール文明は、数々の遺跡や遺物が発見発掘されて、実在が確認されていますが、シュメール人の多くは王朝が滅んだ後、忽然と消息を絶った謎の民族でもあります。シュメール人はメソポタミアの先住民ではなく、中央アジア、現在のチベット北側の崑崙(こんろん)山系の高地に住むクメル族であり、その民を統括していたスメル族がルーツです。そのスメル族の「スメル七賢人」が船でメソポタミアに渡り、農業・造船・医学などの高度な知識を先住民に教え、シュメール文明の基礎を作ったという、シュメール文字の解読による創世記伝説が残されています。

スメルは「尊い人」という意味で、日本の天皇・皇尊も「スメラミコト」と読むことも興味深いですね。ちなみにシュメール王朝の遺跡に残る王家の紋は十六弁菊花紋です。

岩田明氏は三井造船の航海士という経歴を持ち、各国を回り、世界中で文化や生活習慣に日本人と類似する人々を見て、探求するうちにシュメール文明に至ったそうです。そしてシュメール文明にある文字・言語・様々な風習・風俗・地名などに古代日本との類似点を発見し、深く探究して著したのが冒頭の書です。

B7 十干・十二支の由来

十干は甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十の符号です。

中国の古い記録『呂氏春秋』には「大撓(たいどう)甲子をつくる」とあり、『漢書・律暦志』にも、「黄帝、大撓(たいどう)をして甲子をつくらしむ」とあるため、この大撓(たいどう)が干支の作者とされています(暦読み解き辞典参照)。黄帝は中国神話の三皇五帝の一人で、伝説上の人物です。他にも易の始祖伏犠が弟子の徐史明に命じて創らせたという説もあります。十干・十二支の数のルーツを遡ればメソポタミア文明に行き着くというのは自説ですが、メソポタミアは文明発祥の地とされ、高度の農業技術や天文・造船などの高い技術や知識があったことが明らかになっています。海・陸のルートを通じてアジアにもその文明が伝えられていたと思えます。古代中国に発祥する十干は、古代の農業を適切に行うための目安、暦の原型であったのではと思われます。人の指は両手で十本あります。片手は五、両手で十を表すのは五進法の元ですが、人の両手の指が文字のない古代の数を数える基準であったと思えます。十干は後に河図(天の絵図、易の根源図)に伝えられます。北の空は北極星を軸にして回る北斗七星があり、北半球のアジアでは、この北斗七星の動きを手かざして測り、季節をつかみ、種をまく時期、刈り取る時期などを予測していたのでしょう。。

さらに十二支(地の絵図『洛書』に描かれる易の根源図)は、およそ12年(11,86年)で天を一周(公転)する木星(歳星)の運行を基準にして、西から東に運行する木星にかわる仮の星・「太歳」を設け、太陽と同じに東から西に移動させた十二の位置に見合う符号をつけ、子・丑・寅…としたのが始まりであると伝えられます。あまりにも古代の話ですが、様々な書物に記される十干・十二支は、天体の運行を読み、農業や生活を営むため、人の知恵が生み出した暦の始まりでした。

C1  十月・神無月

神無月のいわれですが、多神教の日本は八百万(やおよろず)の神が全国におります。十月はこの神様が一斉に乾=天の国「出雲」に集結して、神が不在となるため「神無月」となり、反対に出雲の国は「神有(在)月」となるのだというのが通説です。その他、縁結びの相談に神が集まるという説や、新米を醸成した神酒とともに神に供える十月の神嘗祭(かんなめさい)にちなみ、神嘗月(かんなめづき)が神無月になったという説など諸説あります。また八百万の神々は何をしに出雲へ行くかというと、八百万の神々は時には怒り、邪神にもなりますから、天高く秋空の広がる十月は、邪心邪悪を天に吸収してもらい浄化するために、天の国出雲にゆくのだろうと、昔、今は亡き師匠から聞いた話を面白く思います。

易で説けば、十月は十二支では戌の月です。戌は十干の戊で、五行では土の要素になり、季節は秋の土用です。易の八卦では「乾=天」にあり、天の卦は天人地の三爻すべてが陽(1)の卦で、啓山式に表わせば天は(111)となります。戌の字は茂る意味があり、秋に茂り実った稲穂は斧(鎌)で刈り取られて、収穫は蔵に収められます。蔵が湿気ていたら作物は腐ってしまいますから、天を表す乾は乾燥の世界を表します。そこで諸説ありますが、十月は豊穣を表し、収穫を天の神に感謝してお供えする神嘗祭に由縁するという説を取るのが自然かもしれません。

B6 自分を愛しみ尊ぶことは易の根本精神

謙虚であると同時に少々の自惚れは元気を出すためには有益です。生まれてきた自分に絶対的な価値があると自覚することはとても大事なことです。大事な自分だからこそ、「自己=我」と向き合い、誤りを修正して延ばしていくために変化していくことを望み、変化を受け入れることができます。それは生命を愛しみ尊ぶ易の根本精神と共通しています。

生命の愛しさ尊さを学び知ることは、知性を豊かに育てます。そして育まれた知性を日常に実践し行動することで、生命のもつ力が延びてゆきます。しかし理屈だけ学ぶことは役に立つより逆に他人の迷惑にもなり得ることで、頭で学び体で知ることがとても大事なことです。知性と行動は陰・陽の関係であり、知行・陰陽一体となってこそ易は真価を発揮します。人は前に進むために歩き行動してその人の道となりますが、易学の道は易の学びを実践することで人を延ばし前進させる道理です。人生のいつの時点でも、易を知る機会があることは幸運なことです。六十で知れば六十化して以後の人生を活性し、十代、二十代で知れば、自分を修め延ばして、無限の未来の可能性を拓く知性と行動力を育むでしょう。全ての人は天命を受けた尊い命だからこそ、その人生を生き抜くことが天道をゆくことといえましょう。