梅見月・雪解月・初花月ともいい、2月3日の節分は冬と春の境目で翌日が立春です。古代中国では三正といわれる夏殷周の暦の歴史があり、周の時代は冬至の月である子月が正月、殷の時代には丑月が正月、夏の時代は立春に近い寅月が正月でした。中国では漢の時代以降、夏王朝の寅月正月・2月正月(春節)が定着しています。日本では節分の頃を旧正月といい、つい近年まで2月の寅月が正月でした。
明治維新後の間もない明治5年、旧暦〔太陰太陽暦〕から新暦〔太陽暦〕へ、世界の大半の国で使われているグレゴリオ暦を採用する大改革がありました。
日本人は西洋化などの時代の流れを柔順に受け入れる中で、伝統を大事に継承していく、大らかでも動じない素晴らしい性質をもっています。
正月・節分・建国記念の日・バレンタインデー・ひな祭・花祭り・五月の節句・ハロウイン・クリスマス…大らかに受け入れても一つに染まらない、西洋人には理解し難いかもしれませんが、日本人が誇るべき多神教的な特質と思えます。
さて2月は立春とはいえ、現実にはとても寒くて雪も降ります。でも雪割草が可憐な花を開き、梅の香りも漂う梅見月・初花月です。雪解け水の流れ出す音など厳しい寒さの中に自然は確実に春の兆しを知らせてくれます。冬の土用は1月~2月で陰から陽に転じ、2月の寅月は、生命の〔木=春〕を生じる易の要素です。暖かな春の盛りも間もなくですね。
啓山易ブログ
B13 易の陰陽と暦の二十四節気 続き
二十四節気に易の陰陽の消長卦を取り入れた十二か月の見方です。(陽は1、陰は0)
立冬 (000000) に陰が極まり、冬至(000001)に一陽が発して徐々に陽気増し、中間に春分(000111)を挟んで、立夏(111111)に陽気極まり、夏至(111110)に至り一陰生じ、徐々に陰気増して中間点に秋分(111000)があり、さらに陰気が増してまた冬に至ります。陰陽の卦の変化は無限に季節が巡っていく易の陰陽の循環です。
下記は二十四節気と十二消長卦が示す季節感です。陰気は0.陽気は1で示します。
月/日(新暦) 〔陰暦〕 季節感
11/7頃 …立冬 000000(坤為地)陰極まる 〔亥・十月節〕
初冬・時雨・冬支度
11/22頃…小雪 立冬から15日後 〔亥・十月中〕
雪まだ小・北風吹き
12/7頃 …大雪 立冬から30日後 〔子・十一月節〕
山頂に積雪・冬到来
12/22頃…冬至 000001(地雷復) 一陽生じ 〔子・十一月中〕
昼最短・ゆず湯・真冬
1/5頃 …小寒 冬至から15日後 〔丑・十二月節〕
寒の入り・寒中見舞い
1/20頃…大寒 000011(地沢臨) 陽気増す 〔丑・十二月中〕
寒極まり熱を呼ぶ
2/4頃 …立春 000111(地天泰) 陰陽中和し 〔寅・正月節〕
節分の翌日 旧正月
2/18頃…雨水 立春から15日後 〔寅・正月中〕
雪解け水流れる
3/5頃 …啓蟄 立春から30日後 〔卯・二月節〕
春雷に地の虫這い出す
3/21頃…春分 001111(雷天大壮)陽気壮ん 〔卯・二月中〕
春分点・彼岸の中日
4/5頃 …清明 011111(沢天夬) 陰気衰退 〔辰・三月節〕
桜咲き草木清浄明潔
4/20頃…穀雨 春分から30日後 〔辰・三月中〕
春雨・種まきの季節
5/5頃 …立夏 111111(乾為天) 陽極まる 〔巳・四月節〕
新緑の候・夏の兆し
5/21頃…小満 立夏から15日後 〔巳・四月中〕
万物天地に満ち始める
6/5頃 …芒種 立夏から30日後 〔午・五月節〕
梅雨前・田植え始め
6/21頃…夏至 111110(天風姤) 一陰生じ 〔午・五月中〕
昼最長・梅雨の盛り
7/7頃 …小暑 夏至から15日後 〔未・六月節〕
梅雨明け・暑気入り
7/23頃…大暑 111100(天山遯) 陰気増す 〔未・六月中〕
酷暑・熱極まり冷気呼ぶ
8/7頃 …立秋 111000(天地否) 陰陽中和し 〔申・七月節〕
残暑・残暑見舞い
8/22頃…処暑 立秋から15日後 〔申・七月中〕
涼風吹く・結実
9/7頃 …白露 秋分の15日前 〔酉・八月節〕
秋気増し草露宿る
9/23頃…秋分 110000(風地観) 陰気昇り 〔酉・八月中〕
秋分点・彼岸の中日
10/8頃…寒露 100000(山地剥) 陽気衰退 〔戌・九月節〕
五穀の収穫・秋深まる
10/23頃…霜降 秋分から30日後 〔戌・九月中〕
秋雨・晩秋・冬近し
…立冬へ循環する
B12 易の陰陽と暦の二十四節気
日本では現代でも二十四節気の季節感が浸透していますが、特に冬至・夏至と春分・秋分の四節気を二至・二分といい四季の中心に置いています。
古代、月の満ち欠けの変化を基準にして創られた太陰暦は、太陽を公転する地球の実際の季節にずれが生じるため都合が悪く、その欠点を補うために、太陽暦の要素を二十四の季節変化に表して二十四節気を設け、太陰太陽暦を創りました。別名陰暦・旧暦とも呼ばれ、紀元前14~11世紀ころの殷代から、近代に至るまで永く使われていました。
このような暦本や陰陽五行思想などが日本に伝わるのはさらに千数百年後の飛鳥時代の頃のこと、紀元602年推古天皇の時代です。
日本の干支の起源を遡ると、聖徳太子が604年を甲子(干支数1)とし、さらにその三年前の601年辛酉(干支数58)から遡る、一蔀(ほう=1260年)前の紀元前660年を皇紀元年と定めました。現在の建国記念の日(旧紀元節)は、皇紀元年(紀元前660年)を神武天皇即位の日として、太陽暦に換算して2月11日に定めたといいます。
暦は東西を問わず古代から施政者の大変重要な研究課題でした。日本でも平安時代には賀茂家や安倍家が陰陽道の大家として登場します。紀元861年には渤海(朝鮮半島)から唐の『宣明暦』が伝えられ、以後1684年に渋川春海(映画化もされた『天地明察』の主人公)が日本独自の暦『貞享暦』を編纂するまで823年間に亘り使われていました。江戸時代は暦の改変が以後四回行われ、最後の天保暦は精緻な太陰太陽暦として完成されています。
暦の二十四節気は一年を二十四に区分して季節の基準点としており、実際の季節感にもマッチしているため大変重宝で、年中行事や農事暦に活用され、干支と共に庶民にも広く浸透して永く使われて来ました。
これらの古代から伝わる暦の知識は、明治5年以後太陽暦が用いられ、様々な西洋化により日常生活から消えていきました。更に終戦後の教育改革により知識としても除外されたため、戦後生まれの方達には特になじみが薄くなっています。…B13へ続く
B11 五行の発祥 つづき
五行は古代の時令(古代の施政者が発した暦のようなもの)思想が元にあります。
特に農事暦は古代の人々が最も必要としていたもので、時代の統治者もそれが最大の権威を示す関心ごとであったと思われます。農業による民の定着はやがて地域として発展し、国の原型になっていきます。また単純に見れば農地と民を獲得するために覇者たちは戦いをしたとも思えます。
そのような古代人はやがて陰陽の概念を深化させて、十干と十二支から干支を生み、万物を五気で表す陰陽五行を生み、太極・陰陽から始まる易という東洋自然学を発展させました。これらすべては、天と地を結ぶ自然を読み説くための人の英知が生み出したものといえます。
五行は古代から観測されていた天の五星(木星・火星・土星・金星・水星)に由来するという説があります。
暦を考える時、太陽や月や星などの天の観測は不可欠でした。遡る古代メソポタミアで創られた星座による暦が、東洋に伝わり地域の違いに応じて天体図として創られたものが河図・洛書であり、またエジプトのピラミッドや古代遺跡のピラミッドは、天文台だったと思う方が納得できそうです。
B10 五行の発祥
五行は古代中国の世界観であり、万物を五つの気(元気)で表す哲学的な理論です。その発祥は、創世記の易にまつわる『河図・洛書』(ブログB9)の伝説に遡ります。
神話の聖人である伏犠が河図から八卦を描き(先天図)、中国最古の王朝とされる夏を開いた禹王が洛書を描いたと伝えられます。禹王は荒ぶる水を治めて王に推挙された人物で、治水についての見識が深いのは当然ですが、水を治めるためには土の作用や天文や季節との関わりなどを同様に研究することが不可欠であったのではと思います。洛書は河図を発展させて、水に加え木・火・金・土の万物の要素を配して、後の陰陽五行説の基となる後天図を生み出しました。
図の星の数を縦横斜めに加えると全てが15となる魔法陣であり、紀元前400年代、中国の戦国時代の諸子百家の一人鄒衍(すうえん)が、陰陽五行思想を唱えて体系化し、漢代には神秘学として大いに普及しました。六世紀ごろ日本にも伝わり、映画にもなった安倍晴明の「陰陽道」もこの流れを汲むものです。
このような経緯から、神秘術や占術の要素が強くなり、特に近代では非科学的なものとする傾向がありましたが、本来の五行は宇宙自然の真理である易と元を同じにする自然学です。現代では注目されている漢方の源流である東洋医学は、五行の相生・相剋を基にしており、伝統的なもの以外にもあらゆる分野で陰陽五行の理念が浸透しています。