E29易経を読む-27〔53〕風山漸・漸次進展〔54〕雷沢帰妹・順を踏まぬ逆行

53〕風山漸(ふうざんぜん)110.100漸次進む伸展成長の道

漸は漸次であり徐々に進むこと。遠い(山)の上の木(風)が、気付かぬうちに着実に成長している象形です。また雁のヒナ鳥が徐々に実力をつけてやがて大空へ羽ばたいていく様子に例え、良縁を得る女性の結婚の道を説いています。

水鳥の雁は渡り鳥ですが、ヒナの時代は親の後を追いだんだんに成長していきます。まず水辺に上がり、次に手近の枝に飛び移り、さらには遠い山の木にも自在に飛び回れるようになり、徐々に実力をつてやがて仲間の鳥たちと共に大空へ羽ばたいていきます。

このように、幸せな結婚を望む女子は、妻となる修養を積みながら落ち着いて待っていれば、やがて立派な未来の夫の目に留まるだろうということで、手順や秩序を踏んで進むことの大切さを説いています。

正しく進み正しく行えば、道を正して功績となり、国家をも正す力となり、その道は新たな発展と創造の世界へと導かれていくが、もし功利的作為的に手順を踏まず逆行するならば、行く末は凶となるだろうと互卦や錯綜の卦が示します。

そこで賢人は順序や秩序を守り、常に内面を磨き技能を習得して実力を養うので、次第に実力者となり周囲を善に染めていく力を得るのです。

54〕雷沢帰妹(らいたくきまい)001.011順を踏まぬ逆行は凶だが終始全うすれば吉となる

帰妹は末娘のこと。若い娘、それも末の娘が姉を飛び越して中年の男性に嫁ぐ様で、順を踏まず逆行する道だから、このような結びつきは凶なのだと説いています。

また中年男性(雷)が少女(沢)の上で動く(震)ことから、肉体的な結びつきを強調して、地位や財力のある熟年男性が若い女性の肉体に溺れることや、親の政略的な意味合いで嫁がされる結婚などが当てはまります。

歴史上ではよくある話ですが、ことさらに凶と戒めています。しかし、終わりを全うすれば吉となるということで、例え功利的、政略的な結びつきであっても、互いに心を通わせる努力をして、終わりを全うするならば、それは風山漸と同じであり、やがて有終の美を飾るだろうと、互卦や錯綜の卦が示しています。

そこで賢人は一時的な現象や状況が弊害になることでも、永続し全うすることを心がけるので、やがては周囲も認め納得して治まっていくのです。

例えアンバランスであっても、終始を全うすれば周囲も治まり吉となるということなのでしょう。

〔解説〕

風山漸と雷沢帰妹は女性の結婚に例えて、対照的な道を説いています。

「漸」は漸次進むことで周易の説く道徳観では女性に限らず望ましい姿です。
上に柔順で、落ち着いて自分自身の修養に努めて待っていれば、やがて道が開け、大いに活躍する場ができるということですが、逆に雷沢帰妹は順序や段階を踏まず一足飛びに有利な結びつきを求めます。

男女の結びつきでいえばアンバランスでも愛情より条件や実利を取るということになるので、卦辞では凶としていますが、現実には多く行われていたことと思います。

現代もセレブ志向の風潮で、恋愛と結婚は別と考える人も多く、雷沢帰妹を望む傾向があるようです。

支配層と庶民の格差が厳しい歴史の時代背景の中で、政略結婚や女性を献上して有利な立場を得ようとすることは当たり前に行われていたと思います。
逆行を凶としても、終わりを全うすれば吉となるとしていることを戒めとしたのではと思います。

徐々に実力を磨いて成長進化する「風山漸」を美徳とすることは、逆も真なりで、功利的でも有利な立場を得たいとする「雷沢帰妹」が、普通であることを示しているのかもしれません。

始まりに問題があろうとも終わりを全うすれば吉に転じることは、地位や立場が人を育て実力を養うことが現実にあることも事実でしょう。

易経の説く世界は、苦難や衰退は希望の道へと続き、楽も繁栄もやがて終息していきます。この世の万物、森羅万象は変化して留まることがありません。

仏教の「諸行無常」も同じことを諭しているのでしょうか…

せめて若い人たちが未来に希望を見出して、実力を養う時間と心の余裕を持てるような環境であればと願います。

E28易経を読む-26〔51〕震為雷・鳴動に慌てず〔52〕艮為山・泰然と動ぜず

51〕震為雷(しんいらい)001.001鳴動に慌てないよう修養を積む

震は雷鳴を表して、いよいよ陽気が発動する状況です。そこで震は伸展成長する勢いを示します。雷雲が現れ雷鳴がとどろくと人々は驚き恐れますが、雷雲が通りすぎてしまえば、何ごともなく笑い合えるものだといっています。

また春雷は春の生命の活動を促すサインでもあり、雷鳴の響きと共に冬眠していた地中の虫たちがぞろぞろと地上に這い出してくる「啓蟄」の季節です。

革命の後の安定を示す〔50〕火風鼎(かふうてい)の後を受けて、恐れおののくような変動も、過ぎてしまえばまた平穏が訪れると続けます。

震の卦の象伝には、雷は確かに恐ろしいので、その時はお金や財物など気にせずまず命の安全に心をくだけ…財物などは七日経てば戻る(七日は六爻がまた繰り返すこと)とあります。

右往左往して家にお金や財産を取りに戻るようでは命も守れず、身命も全うできない。また財物に執着すれば身動きが取れなくなる。七日経てば戻るとは、逆風に逆らわず順風を待てば自ずと戻ってくるものだということでしょう。

これは君子たるものは危険が及ぶ時こそ、冷静に大事を見極めて行動せよという「中庸」の姿勢に通じます。、

そこで賢人は常に起こるだろう変動のたびに恐れおののきうろたえないよう、日頃から戒め慎み内面の修養を怠らないのです。

 

52〕艮為山(ごんいさん)100.100 泰然自若して動ぜず・無私無欲

震為雷から一転して、艮は止なりで、動かず留まる事です。

その留まり方は、例えその人の背後にいても顔を合わせず、庭先に赴くことがあっても会おうとしないと徹底しています。

ただ動かないのではなく、留まる時は何があっても動かず、行くべき時が来たら果敢に突き進むことで、常に時に応じ目的に応じていれば、必ず光明がさすだろうとあります。

「艮」は泰然自若、冷静沈着で安易に動かない。もし軽率に動くならば、「山」が行く手を塞ぐことになり全てが滞るだろうと説いています。

物事が容易に進まない状態である時に、たとえ孤独でも焦らず、耐えて現状を守り抜く姿であり、それは私欲を捨てた無私の行為、無心の働きでしかないのです。艮に徹すればやがて雪が解けて春が訪れ、会いたい人と会い、共に和やかに語り合う悦びの時が来るだろうと、錯卦綜卦が示しています。

そこで賢人は動きようのない山を見て、冷静沈着に自分の立場を考え、分を越えた欲望を戒め現状の守りに努めるのです。

 

〔解説〕

発動を示す震為雷と静止を示す艮為山は対照的な卦です。

古代から春雷は春を知らせ春の種まきシーズンの到来を示しますが、秋はまた雷光を受けて稲が結実すると信じられていました。そこで稲光、稲妻という情緒のある言葉が生まれたのですね。

雷は陽気・動の発動を示して力強い生命力を示しますが、同時に雷による被害もあり、雷神は稲妻(夫)であると同時に荒ぶる神ともなることを知って、古代から人々は敬虔に信仰していたのでしょう。

波乱の時は難を避け身命を守ることが大切で、お金や財宝などに執着しないこと。財物などはまた時が来れば取り戻すことができると説いています。

また艮為山は、どうにも動きようのない困難や力を前にした時は、泰然自若として動かず、無私無欲に徹して身命を守り抜くことだと説きます。

どちらも私欲との向き合い方に学びがあり、今やるべきこと、何が大事かを見極めることで、次の好機に臨むための道が開けるのだと思います。

お金や財物に執着せずまず命を守るために行動する…

困難な状況にいる時は、私欲を捨て分を守り、じっと好機の到来を待つ…

どちらも中庸に通じる君子の徳を説くものですが、普通人は、家が燃える危険があれば、うろたえて大事な物を取りに戻るかもしれませんし、会いたいと思い願う人が目の前にいたら声をかけてしまうかもしれません。

とっさに大事を見極め、どう動くかはとても難しく、君子の道はそう簡単ではありませね。

E-27 易経を読む-25〔49〕沢火革 革命・改革の道〔50〕火風鼎 安定の道

49〕沢火革(たく..かく)011.101 革命と改革の道

革は革(あらた)める事で、革命や改革、革新の道を説いています。

上卦の沢(水)は、下卦の火と対立する関係で、古いものを新しく改めるには対立する関係を壊すことから始まります。その破壊の混乱を乗り越えてこそ建設的な未来を築くための革命が成立するのだと説きます。

私欲を捨て誠実に正しい道を進み、自ら無知蒙昧を啓き、寒泉を掘り当てる経験をしてこそ、行き詰まりを改める道が開きます。蒙昧を開き寒泉を掘り当てる経験とは、悩み苦しみの根元を正しく知るために自ら良い師を求めて啓蒙に励み、心の奥底に潜む清冽な思いや志に行きつくことです。

ただ勢いで思想に感化したり、頭だけの知識や理屈のみで革命に走れば、建設的な未来などは望めません。

志が大事であることはいうまでもなく、例え勢いと理屈で改革を可能にしても、平和や安定をもたらすことはなく、やがて迷走して長く暗黒の世界に落ち込んでいくことになるでしょう。

未来の建設が長く平和と安定をもたらすための革命の成功を鼎革(ていかく)といい、真の革命の道としています。次の卦、火風鼎(かふうてい)は革命の後に安定をもたらす未来の建設の過程を示します。

 

50〕火風鼎(.ふう.てい)101.110 鼎革(ていかく)は安定への道

破壊と革命の後に、新たな未来の建設が始まります。鼎(かなえ)は三本足で神に捧げる供物を煮炊きする大きな祭器で、その小さなものは香炉などにも用いられました。

「鼎(かなえ)の軽重を問う」という言葉がありますが、古代の鼎は国の権威を示す象徴でした。ましてその軽重を問うことは無礼であり、敵対する人物とみなされても仕方ありません。
鼎は三本足ですが、三は、奇数(陽数・動数)の基礎となる数で、発展をもたらす数を表します。三本の矢、三角形のピラミッド、くさびなどもそうですが、三は安定した動きを示す最小の数です。
鼎の1は根元数を表し、取っ手の2は陰陽を表す偶数の基本の数を示し、足の3で「立つ」という動きが生まれます。また3は天地人を包括する数でもあり、万物の順調な進展を示す数です。

革命の後に平和と安定の世界を切り開くために、元凶を除いて行き詰まりを打開し、無理無駄を取り除くために、果敢に決断決行することは生みの苦しみです。そこを乗り越えていけば、やがて水が地を潤うすように発展していくだろうと、鼎革(ていかく)の道を説いています。

 

 

〔解説〕

沢火革(たくかかく)と火風鼎(かふうてい)の二つの卦は、古代中国を中心とする東アジアの易姓革命が背景にあります。古より国を治める王は天命を受けて王となり、代々世襲で受け継がれました。
王が天帝の命を受けるという大義名分のもとで命を革めることを易姓革命と言い、当然王家の姓が変わります。

天帝の意に反すれば革命を起こして他の有徳の王が引き継ぐことを肯定する、儒教的な思想が背景にあります。

鼎(かなえ)については、古代の夏王朝の初代禹王は、天帝に供物を捧げるために九つの鼎を鋳造して国の威信を示したと伝えられます。やがて夏を滅ぼした次の殷の湯王はその鼎を継承してその威信を示し、殷を滅ぼした周の武王も革命成立の証として夏・殷の鼎を継承しました。
天帝の命を受けて行われる易姓革命の正当性を、鼎の継承を革命成功の象徴とすることで「鼎革」という言葉が生まれたのでしょう。

語源はともかく、前回の「沢水困たくすいこん」の干上がる苦しみから「水風井すいふうせい」へ転じて、ようやく清冽な寒泉を掘り当てて新たな未来を建設するための道筋が開けることを、この二つの卦から知ることが有益と思います。

八方ふさがりの苦しみの中で、心の奥に潜む清らかな泉(初心や志)を掘り当てることができれば、必ず改革への道が開き、新たな未来を開く力が生まれます。
大きな困難を乗り越えて光へと誘う道筋といえましょう。

E26易経を読む-24〔47〕沢水困・臥薪嘗胆 〔48〕水風井・清水(志)が蘇える

〔47〕沢水困(たくすいこん)011.010 臥薪嘗胆・志を保つ

困は困難を表し、□の中の木が周囲を塞がれて苦しみ悩む状況です。

易経は困の卦を四大難卦の一つに数えています。
四大難卦は、生みの苦しみ「水雷屯(ちゅん)」、往く手を塞がれる苦しみ「水山蹇(けん)」、全てをご破算にする苦しみ「坎為水(かんいすい)」、干上がる苦しみ「沢水困」の四つを指します。

沼沢(011)に水(010)がなく干からびるような苦しみは、生物には耐えがたい苦難です
天に祈るばかりで成すすべもない状況ですが、易は昇れば昇るほど新たな困難にぶつかるものだから、その危難も受け入れ、困苦の中にも志を失わず繁栄の道を見失わないことだと説きます。

そこで臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して志を果たした越王・勾践(こうせん)の話が思い出されます。

紀元前470年頃の中国・春秋時代、越王・勾践に父王を討たれ屍を取られた呉王・夫差は、毎夜薪(たきぎ)の上に寝てその痛みで復讐を忘れず、後に越を降伏させ、越王・勾践と妻を奴婢として仕えさせました。
越王・勾践は耐えがたい屈辱的な日々を過ごす中で、熊の胆を嘗め、その苦さで国の再興の志と屈辱を忘れぬようにしたという話が伝わっています。
やがて越王は呉王の信用を得るほどになって越に戻り、その後呉を滅ぼし積年の恨みを晴らしたのですが、互いに宿敵となった二人の王が薪に寝、胆を嘗め、苦難に耐えて志を成し遂げたことから、「臥薪嘗胆」という言葉が生まれました。

越の民も王の帰還を信じて共に耐えて時を待ちました。互卦の風火家人は信じて耐えて待つことで困難を克服する時が来ることを説いています。そのためには心の奥の清らかな泉を掘りおこし、清冽な志を立てることだと綜卦の水風井が示します。

そこで賢人は干上がるような苦難のときこそ、身命をかけて志を立て貫いていくのです。

〔48〕水風井(すいふうせい)010.11 清らかな水を湛える泉・井戸の効用

井は井戸のことで、釣瓶(風=木)で清らかな水を汲み上げる象形です。水は渇きを癒し、作物を育て、干上がる苦しみを解消します。
汲めども尽きない井戸は静かにたたずむ活力の源。水場である井戸の周囲に人の集落ができてくることから、市井(しせい)という言葉が生まれました。

干上がった時に井戸を掘り起こすことは、行き詰まった時に、心の奥深くの清らかな生命の泉を掘り起こし、志を打ち立てていくことと同じです。

井戸は欠かせない水場で誰にも開放されていますが、普段は当たり前でありがたさを忘れがちです。
でも日頃の整備を怠ると釣瓶が壊れて水が汲めなくなり、さらに水が濁り詰まって人々が去っていくことになり、焦り慌てることになります。
そこで井戸は時々底をさらい、釣瓶を常に点検し、さらに石を積み整備すれば、水が濁り詰まることもなくなります。

もし枯渇するような困苦に陥ったときは、新たな井戸を掘るように、自己を掘り下げていくことで、生命の泉を掘り起こす境地に達するのだと説きます。
そして水が詰まらず濁らず腐らぬように対処すれば、良い水場に人が集まるように、自ずと繁栄に導かれていくでしょう。

発展や繁栄の時も新陳代謝が大切で、上下が噛み合うように積極果敢に障害を排除することを錯卦の火雷噬嗑(からいぜいこう)が示します。
又内部の嫉みや妬みによるいざこざは困難に至る遠因にもなるので、日常を丁寧に積み重ねて、同じ志に向かう道筋を整えることだと互卦の火沢暌(かたくけい)が注意を促します。

そこで賢人は常日ごろから人々(民)をねぎらい、励まし、助けるのです。

 

〔解説〕

前回は繁栄と発展の二つの卦のお話でした。今回は一転して、四大難卦の一つ干上がる苦しみ「沢水困」と、濁って詰まった井戸を蘇らすように、生命の泉を掘り起こす「水風井」の二つです。

どちらも苦しい時こそ、清らかな心で強く志を貫くことが大切だと説いています。

水は生命の維持に欠かせず、水場に人は集まり、水場は繁栄をもたらします。でも水場のありがたみを忘れ整備を怠ると、水は濁り干上がって慌てふためくことになります。

人の世界も繁栄に胡坐をかくと内部から腐敗が始まることは同じです。

そこで日ごろから水が濁らないように点検整備し、同様に初心を忘れて内部が背きあわないように、志に沿い日常を丁寧に積み重ねることが大切です。

上昇や発展の時にも次々に新たな苦難は訪れます。困難な時も志を忘れず、良い時も慢心せず、自分の内面も含め内部の新陳代謝を心がけること。そして常に下の人に心を配り、励まし、助けることが、いざという時の備えになるのですね。

 

 

E25 易経を読む-23〔45〕沢地萃 繁栄と防衛〔46〕地風升 発展上昇の道

〔45〕沢地萃(たくちすい)011.000 人が集まれば繁栄する。有事に備える。

萃は「地000」の上の水場「沢011」の象形で、水場には草が群生することから、聚(しゅう)=集まるという意味に用いられます。

古代から水場には人や物が集まり、そこで物品のやり取りがはじまり、賑わい繁栄していきました。それは砂漠を旅する人々がオアシスを求めて集まり、様々な交易が行われ、やがて街となって繁栄していくような状況です。砂漠のような過酷な地で渇きをいやす水場はまさにオアシスです。人々は天の恵みと感謝したに違いありません。

人が集まればそこには良い人も集まれば好ましくない人間も集まってきます。色々な物が集まり交易が発展して繁栄する中で、安全のために秩序が求められ、ルールや制度が創られ、警護をする人が組織されます。

水辺に草が茂るように、沢地萃は、人々をひきつける水場であり、ひきつける人物に例えます。真の成功者、実力者となる人は、繁栄に慢心せず、常に天地や祖先の恩恵に感謝し、万一の事変に備えを固め、堅実に財を蓄積し、優れた人を養い育てるのだと、錯卦の山天大畜(さんてんだいちく)が示します。

そこで賢人は謙虚に繁栄を感謝し、益々徳を磨き、常に良い人材を養い育て、油断することなく有事の備えを固めるのです。

沢地萃は次の地風升と共に大変勢いのある吉卦です。

この卦は「鯉、龍門に昇る」と言われ、掛け軸などの「鯉の瀧昇り」の図柄に描かれて、受験や昇進の願掛けに大吉とされています。

 

〔46〕地風升(ちふうしょう)000.110 発展し上昇するために。

升は昇で上昇の勢いを示します。「地000」の下の若い芽「風110」がまさに天に向かって伸びようとする象形です。新芽は大地に育まれてすくすくと伸びていくことから、徳のある良い指導者に従っていけば若い力が大いに伸び栄えるだろうと説いています。

前の沢地萃は人が集まれば自ずと繁栄し、繁栄の後は天地に感謝し、良い人を育て養うことが賢人の務めとありました。

次の地風升は良い地(指導者)に恵まれて若い芽(若い人材)が育ち、やがて発展向上していくとあります。良い人に良い人が集まり、良い人は良い人を育てる…発展と繁栄の根本は人であるということなのですね。

伸びようとする若い芽は、一足飛びに飛躍を望まず、良い指導者に付き着実に実力を身に付けて努力すれば、自ずと発展の時を得る。
しかし人生は予期せぬ出来事が起こりやすいから、何が起きても作為的に動かず、偽りなく誠実に精進することだと、錯卦の天雷无妄(てんらいむぼう)が示します。

賢人は草木の成長は徐々に高大になることを悟り、発展の時に備えて実力を養い磨くのです。地風升は成功の条件を 1、実力2、後援者3、時の利と三つ上げています。

 

〔解説〕

沢地萃と地風升の卦は易経の中でも繁栄と発展の道を説く吉卦です。

沢地萃は、人が水場に引き寄せられるように、人が集まってくれば自ずと繁栄の道が開けるのだと説き、地風升は草木が伸びていくためには良い大地に恵まれることで、良い指導者に出逢うことが大いに発展向上する道だと説きます。

「鯉龍門に昇る」の象とは、鯉が瀧を昇るのは相当の勢いが必要で、力強くたくましい鯉に例えて、真の実力者は発展し繁栄することを表すめでたい図柄と思います。

人が集まり繁栄に導かれるのは、その人物が真の実力者であり、繁栄の力で多くの人を養い育てる賢徳の人だからで、そこで育てられた人材はやがて有事のときの強い味方となり、強固な防衛力となるのだということでしょう。

真の成功者・実力者はただのお金持ちやお大尽ではありませんね。

成功のために必要なことは、実力と支援者と時の利の三つ、そして真の成功者は実力と財と人材をもつ人だといいます。もし今が不遇でも嘆かず、発展の好機に備え、良い指導者を求め、実力を養う…二千年の時を経ても、なるほど…とうなずいてしまいます。