F-7易の言葉 一陽来復…新年を迎えて

地雷復000.001 新たな生命が兆す・復活の時
「一陽来復」は春が来る兆しで、新年の幕開けを示します。
易の地雷復000.001は、陰極まれば陽が生じるという易の道理の陽気の出発点を示す卦で、一陽が復活するという「一陽来復」はこの地雷復から生まれた言葉です。

厳寒の土の下に眠る草木の種子が、次世代の命となるために秘かに成長を始める様子であり、また破壊の後に力強い復興が始まることであり、苦しみや行き詰まりの中に一筋の光明が差す復活の兆しでもあります。

多忙を極め、苦労を極めた一年であっても、新年を迎える初日は誰にも平等に注がれ、暖かな春へ一歩近づく希望の光と思えます。そのように一陽来復とは発展のエネルギーである陽気が兆す希望の幕開けを示します。

元旦の朝は、各々に新たな希望を抱き幸多い新年をと願いますが、世界中で今もおびえ苦しむ人々や飢えをしのぐこともままならない人々が多くいる現実で、人の苦難は綿々と終わることがありません。
それでも、陰極まれば一陽が生じる天地の営みがあり、深い夜の闇も日の出と共に明るい朝が訪れ、いつか苦しみは終わり必ず穏やかな平穏の日々が来るという、生きるための希望の道理を捨てることはできません。

元旦を迎え、毎年「今年こそ!」「今年は…」と抱負を抱き、氏神様に初もうでに出かける私ですが、今では何ごとも自分の行いの結果と自覚もしており、最近は生きている今を感謝して、「子供たちの未来をお守りください」とだけ祈願するようになりました。
特に東北の震災以来、どこの地においても神仏に手を合わせる時は、その言葉だけは忘れません。

一陽来復して新たな年の夜明け前のひと時ですが、皆様に幸多い新年となりますようお祈りいたします。そして子供たちの未来が安泰でありますようにと、今年も氏神様に初もうでに参ろうと思います。

F-6 同人集う…類は友を呼ぶ

同人会・同人誌など今では一般的に使われている「同人」は、易経13番目の「天火同人111.101」に由来する言葉です。
類は友を呼ぶは、似通った傾向をもつ者・同類は自ずと集うものだという諺ですが、同類は逆説的な悪い意味にも使われることがありますね。

本来は強い行動力に加え輝く知性と豊かな社会性をもつ人が、同じ志をもつ「同志」を求めて集うことを「同人」といいます。

大望を抱き同志を求める時は私的な縁故に頼らず、義理に流れず、安易な選択をしないことが大切で、始めは孤独で辛くても自力で社会的な人間関係を広げていけば、やがて良き友や同志を得るだろうと説きます。

同志を求め、類は友を呼び、同人が多数になれば社会的な勢力に成長していきます。そこで大望を抱く人物は聡明なリーダー、統率力のある指導者となって理想的な集団を築いていくという展開です。
同人の卦と因果関係にあるのが「地水師000.010」の卦で、まさに良き指導者に率いられた理想的な集団を示しています。

天はその行く末を「火天大有101.111」であるとして、輝く太陽が貴方たちの頭上を照らすだろうと、豊かに発展した情景を描きます。

同人から始まるストーリーは繁栄を極め、多くの民が安住する時が来るというのですが、通ずれば窮すのが易の道理で、平和の中にも内部にあれこれ比較して不満が生じ、優劣を競って派閥が誕生していく「水地比010.000」に展開して不穏な空気が漂います。派閥は志を離れて利害で結ばれ、同志を離反させ、対抗勢力の芽ともなっていきます。

何千年を経ても、例え聡明な有徳の人が率いても、人が集団となり繁栄し勢力をもつと同じ現象が繰り返されるのは、自然の摂理なのでしょう。

その繰り返しの中で少しずつ人は進化してきたはずですから、大望を抱く若者たちはあきらめずに、強い行動力と豊かな知性と社会性を発揮して、良き友良き同志を求めて次世代へ続く人々の安住を築くために頑張って欲しいと思います。

 

F-5易の言葉 君子豹変す・大人虎変す

豹変や虎変は、豹や虎が秋になって毛が抜け替わり、鮮明で美しい毛並みになることを例えた言葉です。しかし豹変するという言葉は現代ではあまり良い意味に使われていないようです。

易経49番目の沢火革011.101の五爻(陽)に「大人虎変す…」上爻に「君子豹変す…」とあります。沢火革は革命の原則について説いている卦です。

革は上(火)下(沢)が対抗して激しく争う相剋の象形です。革命には破壊が伴うため万民の支持と信頼が不可欠です。そこで機が十分熟して行うことを原則としています。厳しい破壊を伴う矛盾を、大人君子の徳が悦びに変えるならば、必ず革命は成功し伸び栄えるだろうとあり、成功の暁にはまず暦を改め新たな時の始まりを示しました。

そこで豹や虎が豹変し虎変する結実の秋に例えて、革命の後の大人君子の道を示します。
時には残酷な破壊活動の後、面目を一新して立派な天子となることを「虎変」と例え、さらに革命の指導者は明徳を示し立派に豹変して成果を維持してこそ、万民が信頼し従ってくる。
しかし信頼に対し悦びで応えず、恐怖や粛清などを行えば行く末は凶となるのだとあります。

現代の豹変はどうも後の凶となる方の意味に使われることが多いようです。

多数の賛成を獲得して改革を成し遂げた後に、目的を離れ一部の私利私欲が勝って多数の信頼に背くことは、美しく立派になる豹変とは違うように思います。

厳しさを共有して人々の悦びに変えるという改革の原則の通り、指導者は美しく立派な君子に虎変し豹変してこそ伸び栄えるということなのでしょう。

 

F-4易の言葉 安泰と否運、逆も真なり

〔地天泰000.111〕安泰・泰平〔天地否111.000〕否力・否運

本来の易の並びで重要な位置にある「泰と否」の二つの卦から生まれた言葉、安泰と否運は「逆も真なり」というお話です。

泰はやすらか・ゆたか・やすし・よしなどいくつもの読み方がありますが、ほとんどが良い意味です。地天泰は上が地000、下が天111で、本来上にある天が下に、下にある地が上にと自然界とは逆転した象形です。天地逆転が示すのは「安泰と泰平」の形です。
地は下に天は上に進むため自ずと天地の働きが和合して安泰であるというわけです。

また天は支配層で地は民衆です。否力な民衆を力のある支配層が下から支えているという、まことに理想的な社会の形が見えます。
人でいえば、外には柔順謙虚な賢徳の人で内には能力や意欲を豊かに秘めた理想的な人物となります。そこで泰は安泰であり泰平の世の形であり、理想的な人の姿です。

天地否は逆に天111は上に、地000は下にあり、自然界と同じ形です。しかし否運であるとして易経では凶を示します。しかも否運であり、偽りであると否定しています。理由は天地が離れていき和合しないこと、社会は支配層ばかりが栄え、民衆は貧しくつらい生活です。しかしおよそ民衆は外面ばかり良く内面は貧相で、実力もないのに虚勢を張ると否定し、そのような人々が低きに流れて徒党を組めば否運を招くとなります。

この対照的な二つの卦の真意は何なのか…

易を読むときに、まず互卦を読めといいます。互卦は卦の中身を成す意味が示され、また吉凶を逆転させる注意点が見えます。

泰の互卦は雷沢帰妹001.011で、作為的に、政略的にてっとり早く上位に食い込むような意味で、これを戒めないと安泰が崩れ逆転して天地否になると警告します。支配者が民を支える安泰の中身は、縁故と資力による出世が現実だとみることができます。

逆に否の互卦は風山漸110.100で、着実に実力をつけ内面を磨いていけば、やがて大空をはばたく時が来るといい、否運でも不遇でもコツコツ努力していけばやがて報われ地天泰となると励まします。

天地否は苦しむ民と繁栄を謳歌する支配層が遊離分離する世の中ですが、民が徒党を組むことを否定し、行えば否運となると警告します。苦しくて辛抱我慢して努力して待てば報われるといいます。しかし大人しく待つだけで報われることはないのが多くの現実です。力のある人に近づける道があるなら大いに利用し、立場や環境を得たら誠意誠実に終わりを全うすれば吉となるのが泰の互卦・雷沢帰妹のもう一つの意味です。否の互卦が示す辛抱我慢と修行を続けて風山漸をしても報われるかとも言えません。理想と現実のギャップはいつの世もありますから。

古代から近年まで民衆の暴動や反乱を契機に、反勢力が強大になり政権が転覆することは多々ありました。
団交は否力な民衆ができる最後の抵抗手段だったでしょう。命がけで行う団交は言葉を変えれば一揆です。支配層がこれを恐れるのは革命の火種となるからでしょう。

そこで泰のもう一方の意味、おごる・贅沢なさま・偉そうなさま・大らか過ぎて厳しさがないそして「泰緩=はなはだ緩し」です。泰平が続くと頽廃と腐敗が始まることが多いのも事実です。

しかしいつの世も支配層は安泰を持続するために民衆が柔順で不満を持たないことを願い、否のように公然と不満を表し、まして徒党を組まれることは大変困ることなのです。

そこで民衆が力もないのに虚勢を張り、徒党を組んで低きに流れると否運が来ると警告するのです。

この対照的な二つの易の言葉は、表面的には吉と凶ですが、深読みをすれば、その中身その正体は「逆も真なり」となります。

権力と否力、富裕と貧困などの距離がどんどん開くと、昔なら一揆となるのですが、幸い現代は民主的な団交という手段があります。デモも団交の一つですが、いつの世も民衆の声は革命の火種となり得ます。

易が説く現代は天地否時代です。

安泰の裏に否運ありと読めば、天と地の距離がこれ以上開かないよう願い、また否運の裏に安泰ありと願うばかりです。

F-3易の言葉 虎の尾を踏む〔天沢履10〕

 

もし本物の虎の尾を踏んだら、それは恐ろしく危険であることから、「虎の尾を踏む」とは世の中の様々な危険の例えであり、虎は偉大な先人でもあります。

「履」は履行で実行、実践することです。何かを実行する時に失敗のリスクがともなうことは当然ありますが、危険や失敗を恐れて実行できなくては発展もしません。

若い時は無鉄砲に勢いだけで進んでしまいがちですが、危険に遭遇したとき、どうすれば命を取られず思いを全うできるのか…

そこで「天沢履」は、危険の多い世の中で思いを遂げるために、まず目上の言葉を素直に聴き、先人・先輩の経験に学ぶ心構えが大切だとしています。

世の中の秩序や礼儀を無視して猪突猛進すれば、危険に遭遇しても捨て置かれることが多いでしょう。

日頃から秩序や礼犧を忘れず、力量に応じて着実に進めば、例え危険に遭遇しても、「虎の尾を踏んでも食われず」となります。

封建的な思想下で虎の尾を踏むことは、「命の危険」そのものでした。

目上や先人(虎)を軽く見て、うっかり虎の尾を踏んで食われないように、無礼を戒め、分をわきまえることは、危険を回避するための大切な処世術といえます。

時代が変わっても、無法地帯でもない限り社会は秩序の中に成り立ちます。

「虎の尾を踏むも食われず」と先人の経験から得た教訓は、心に留めておきたい言葉です。

余談ですが、さまざまなブログのコメント欄にひどい言葉で批判をする人をみかけます。
自由な表現や言いたいことが言えることは素晴らしいことですが、最低の礼儀があるのではないかと感じます。

例えば、ジジイ・ババア・ガキ・ブス・くそバカ・死ね・消えろ…などなど、ただうっぷん晴らしをするのならともかく、他人事でもひどいなーと思います。
怒りや憤りを表現するのは大切と思いますが、こんなひどい言葉で批判された方は、耳を塞ぎ目を塞ぎ無視するしかなくなるでしょう。

言葉は人の思いを伝える手段であり時には武器にもなります。

若い人の言葉が社会を担う実力者に届くように願いますが、このような表現ではなく、言葉を大事にそして雄弁に、心の怒りや憤りを表現し、また提案などしてほしいなと思うのですが…