B 14 易の歴史ー2

秦や漢代以後の易には二つの流れがあります。一つは儒学に代表される、思想や道徳などを説く「義理易」。一つは易の数理を探究する「象数易学」です。
秦や漢の時代は象数易の研究に重きが置かれ、後の魏や晋では義理易に重点が置かれて、玄学(老子・荘子・易経)が隆盛になります。以後唐・宋・明代まで哲学的な義理易が主流の時代が続き、中国最後の王朝である清代に入り、象数易である漢易が復活します。
義理易と象数易のどちらが勝るものでもなく、哲学的な易のみでは深奥は探れず、数理のみに偏れば易の深奥は生かしきれないでしょう。
象数易は実践的に応用し、科学的に活用する点で優れています。
卑弥呼の存在を記した「魏志倭人伝」などで有名な「三国志」に登場する、蜀漢の宰相「諸葛孔明」が、象数易を駆使して作戦を立て勝利を導いたという話は、映画や小説にも描かれよく知られています。
いつの時代でも、この世を治めるのは人です。施政者や統治者が賢人でなくては民衆は救われません。
そして賢人にふさわしい学びや生き方を求めて、人の道を追及する義理易を学ぶことがとても重要だったのです。
また宇宙自然の法則としてみれば、象数易のような、陰陽の数理的な展開や数の配列は科学の発展に欠かせないものでした。
易は相対する陰陽が無限に循環する生命の原理を説いています。
宇宙や自然の循環の法則を人の道に追求すれば、生命を尊ぶことに通じていきます。
限りない欲望は滅亡を速め、忍耐や我慢は限界を超える力になります。
目先的な利益や繁栄も、絶望に苦しむ状況も、繁栄も衰退も必ず終りが来るという易の智恵は、限りある人生を少しでも大らかに、心豊かに過ごすための拠り所となるのではと思うのです。

B13 易の歴史ー1

五行や八卦または干支などは、易を実際に活用するときには理解しなければならない大事な要素です。
易は天地自然の法則を導くものですが、季節の巡りや生命の循環に合わせ、万物の変化を五行の循環や八卦に重ねて読み説けば、八卦も五行も干支もその源流は同じといえます。
願い年月を経て、多くの賢人の手により体系づけられてきた易の歴史を辿ってみます。
古代における易の歴史は、東アジアの夏・殷・周の王朝にまつわる伝説となっています。
四千年前の夏王朝以前に、創世記神話の三皇五帝の一人「伏犠」がおり、夏王朝初代の王「禹」と共に、八卦や五行十干の元となる天地の絵図「河図・洛書」を著した人物として伝えられています。(ブログB8・9)
河図を基にした天盤図は「先天図」といい、洛書を基にした天盤図を「後天図」と呼びます。
また後の紀元前1000年ごろに殷に代わる周王朝が建国し、文王(西伯)と息子の周公旦により文字による解説がなされ、周王朝が続く中で易は発展していきます。周代後半の紀元前800年ごろの春秋戦国時代には諸子百家と呼ばれる、多くの学派学者により探究され広まっていきます。
春秋時代の後半、紀元前551年に儒教を起こした孔子が生まれています。
哲学的な歴史から見たほぼ同時代の世界の三聖人は、仏教の始祖「釈迦」・ギリシャ哲学の始祖「ソクラテス」・そして儒教を唱えた「孔子」といわれます。そして今に伝わる「易経」は、創世記神話にある伏犠と周の周公旦と孔子の現中国古代の三聖人の手により著されたと伝えられますが、これも思想統制の厳しかった秦代や、後の漢代を経て、紀元1200年ごろの南宋の時代ころまで、多くの学者や思想家の手が入っているとみるべきでしょう。いかなる時代でも古代の聖人の手によるものとすることで重んじられ、易経などの書物が生き残ったとも思えます。
群雄割拠して諸侯が勢力争いを展開した紀元前の戦国時代から、ほんの百年前の近代史が始まるまで、易は王の学問であり、施政者の知恵学でした。諸学者や賢人の多くは、王や諸侯に仕えていわゆる参謀のような役割を担っていたことは歴史書の中に多く記されています。易はこのような時代の流れの中で、東洋哲学として発展し、体系づけられてきました。(B14へ続く)

B13 易の陰陽と暦の二十四節気 続き

二十四節気に易の陰陽の消長卦を取り入れた十二か月の見方です。(陽は1、陰は0)
立冬 (000000) に陰が極まり、冬至(000001)に一陽が発して徐々に陽気増し、中間に春分(000111)を挟んで、立夏(111111)に陽気極まり、夏至(111110)に至り一陰生じ、徐々に陰気増して中間点に秋分(111000)があり、さらに陰気が増してまた冬に至ります。陰陽の卦の変化は無限に季節が巡っていく易の陰陽の循環です。
下記は二十四節気と十二消長卦が示す季節感です。陰気は0.陽気は1で示します。
月/日(新暦)                  〔陰暦〕    季節感
11/7頃 …立冬 000000(坤為地)陰極まる 〔亥・十月節〕
                    初冬・時雨・冬支度
11/22頃…小雪  立冬から15日後    〔亥・十月中〕
                    雪まだ小・北風吹き
12/7頃 …大雪  立冬から30日後    〔子・十一月節〕
                    山頂に積雪・冬到来
12/22頃…冬至 000001(地雷復) 一陽生じ 〔子・十一月中〕
                    昼最短・ゆず湯・真冬
1/5頃 …小寒  冬至から15日後     〔丑・十二月節〕
                    寒の入り・寒中見舞い
1/20頃…大寒 000011(地沢臨) 陽気増す  〔丑・十二月中〕
                     寒極まり熱を呼ぶ
2/4頃 …立春 000111(地天泰) 陰陽中和し 〔寅・正月節〕
                    節分の翌日 旧正月
2/18頃…雨水  立春から15日後     〔寅・正月中〕
                    雪解け水流れる
3/5頃 …啓蟄  立春から30日後     〔卯・二月節〕
                   春雷に地の虫這い出す
3/21頃…春分 001111(雷天大壮)陽気壮ん  〔卯・二月中〕
                    春分点・彼岸の中日
4/5頃 …清明 011111(沢天夬) 陰気衰退  〔辰・三月節〕
                     桜咲き草木清浄明潔
4/20頃…穀雨  春分から30日後     〔辰・三月中〕
                     春雨・種まきの季節
5/5頃 …立夏 111111(乾為天) 陽極まる  〔巳・四月節〕
                     新緑の候・夏の兆し
5/21頃…小満  立夏から15日後     〔巳・四月中〕
                    万物天地に満ち始める
6/5頃 …芒種  立夏から30日後     〔午・五月節〕
                     梅雨前・田植え始め 
6/21頃…夏至 111110(天風姤) 一陰生じ  〔午・五月中〕
                     昼最長・梅雨の盛り
7/7頃 …小暑  夏至から15日後     〔未・六月節〕
                     梅雨明け・暑気入り
7/23頃…大暑 111100(天山遯) 陰気増す  〔未・六月中〕
                   酷暑・熱極まり冷気呼ぶ
8/7頃 …立秋 111000(天地否) 陰陽中和し 〔申・七月節〕
                     残暑・残暑見舞い
8/22頃…処暑  立秋から15日後     〔申・七月中〕
                     涼風吹く・結実
9/7頃 …白露  秋分の15日前      〔酉・八月節〕
                     秋気増し草露宿る
9/23頃…秋分 110000(風地観) 陰気昇り  〔酉・八月中〕
                    秋分点・彼岸の中日
10/8頃…寒露 100000(山地剥) 陽気衰退  〔戌・九月節〕
                   五穀の収穫・秋深まる
10/23頃…霜降 秋分から30日後     〔戌・九月中〕
                    秋雨・晩秋・冬近し
…立冬へ循環する

B12 易の陰陽と暦の二十四節気

日本では現代でも二十四節気の季節感が浸透していますが、特に冬至・夏至と春分・秋分の四節気を二至・二分といい四季の中心に置いています。
古代、月の満ち欠けの変化を基準にして創られた太陰暦は、太陽を公転する地球の実際の季節にずれが生じるため都合が悪く、その欠点を補うために、太陽暦の要素を二十四の季節変化に表して二十四節気を設け、太陰太陽暦を創りました。別名陰暦・旧暦とも呼ばれ、紀元前14~11世紀ころの殷代から、近代に至るまで永く使われていました。
このような暦本や陰陽五行思想などが日本に伝わるのはさらに千数百年後の飛鳥時代の頃のこと、紀元602年推古天皇の時代です。
日本の干支の起源を遡ると、聖徳太子が604年を甲子(干支数1)とし、さらにその三年前の601年辛酉(干支数58)から遡る、一蔀(ほう=1260年)前の紀元前660年を皇紀元年と定めました。現在の建国記念の日(旧紀元節)は、皇紀元年(紀元前660年)を神武天皇即位の日として、太陽暦に換算して2月11日に定めたといいます。
暦は東西を問わず古代から施政者の大変重要な研究課題でした。日本でも平安時代には賀茂家や安倍家が陰陽道の大家として登場します。紀元861年には渤海(朝鮮半島)から唐の『宣明暦』が伝えられ、以後1684年に渋川春海(映画化もされた『天地明察』の主人公)が日本独自の暦『貞享暦』を編纂するまで823年間に亘り使われていました。江戸時代は暦の改変が以後四回行われ、最後の天保暦は精緻な太陰太陽暦として完成されています。
暦の二十四節気は一年を二十四に区分して季節の基準点としており、実際の季節感にもマッチしているため大変重宝で、年中行事や農事暦に活用され、干支と共に庶民にも広く浸透して永く使われて来ました。
これらの古代から伝わる暦の知識は、明治5年以後太陽暦が用いられ、様々な西洋化により日常生活から消えていきました。更に終戦後の教育改革により知識としても除外されたため、戦後生まれの方達には特になじみが薄くなっています。…B13へ続く

B11 五行の発祥 つづき

 五行は古代の時令(古代の施政者が発した暦のようなもの)思想が元にあります。
特に農事暦は古代の人々が最も必要としていたもので、時代の統治者もそれが最大の権威を示す関心ごとであったと思われます。農業による民の定着はやがて地域として発展し、国の原型になっていきます。また単純に見れば農地と民を獲得するために覇者たちは戦いをしたとも思えます。
そのような古代人はやがて陰陽の概念を深化させて、十干と十二支から干支を生み、万物を五気で表す陰陽五行を生み、太極・陰陽から始まる易という東洋自然学を発展させました。これらすべては、天と地を結ぶ自然を読み説くための人の英知が生み出したものといえます。
五行は古代から観測されていた天の五星(木星・火星・土星・金星・水星)に由来するという説があります。
暦を考える時、太陽や月や星などの天の観測は不可欠でした。遡る古代メソポタミアで創られた星座による暦が、東洋に伝わり地域の違いに応じて天体図として創られたものが河図・洛書であり、またエジプトのピラミッドや古代遺跡のピラミッドは、天文台だったと思う方が納得できそうです。