啓山易ブログ

B9 八卦の誕生ー2

八卦の誕生には諸説があります。易の始祖と言われる「伏犠」が、黄河に表れた竜馬の背中のつむじ状の文様を発見し、写し取って八卦を創り表したとされ、これは天の絵図「河図(かと)」として伝えられます。さらに今から4千年余り前のころ、「夏」という中国最古の王朝がありました。初代の禹王は治水の優れた技術者でもあり、前王の舜より禅譲されて夏王朝を創始したと伝えられます。禹王は徳も篤く、前述の伏犠の八卦を政務に生かし、伝説では洪水を修めた洛水から現れた神亀の背にあった九つの文様を発見し、それは後世に地の絵図「洛書(らくしょ)」として伝わり、「河図」と共に『書経(中国の五経の最も重要な経典)』の元になったといわれます。

河図に十干を配し、洛書に十二支を拾い、5を中心に配置した1から9の数はたすと15となるという、いわゆる魔方陣です。今に伝わる九星術もこれをもとに編み出されたものです。真実はわかりませんが、B8で記したように、古代人が長い年月をかけて天地の変化を実感し創り上げたものという説もあり、シュメールのような高度な文明からもたらされたという推論も捨てられません。いずれにしても、この河図・洛書は干支や易の元となるものとして伝説となっています。

易は代々の帝王の学でもあり、竜馬や神亀などの神秘性をもたせることに意味があるのかもしれません。実際に数千年前の発見である河図・洛書が世に出たのは、それから三千年余り後の南宋の時代です。朱子学を起こした偉大な学者である朱熹(1130~1200)の、弟子の祭元定(1135~1198)が、山深くに住む道士から、その祖先が焚書を逃れて守り通したという河図・洛書を含む九枚の絵図を入手したという伝説があり、それをもとに、朱熹は『周易本義』を著したといいます。現代に伝わる朱子学(儒学)や周易はこの朱熹等により確立されたものです。遡れば紀元前の二千年間に、伏犠や周の文王や周公旦、孔子等の手により、「易経」が創り上げられたというのも不確実なのですが、現実に数千年を経た現代に伝えられていることは事実なのです。

B8 八卦の誕生ー1

言葉も不完全な古代のこと、人々は太陽に照らされる時と、日が沈み闇に包まれる時の繰り返しの中で、「明と暗」を実感し、「昼と夜」を感じ取りました。また、手の届かないはるか彼方に広がる「天(空)」にきらめく月や星々を仰ぎみ、周囲や足元には様々な樹木や草木が生え、そこに人や動物たちが生きている「大地」を実感していました。

天の太陽が地に及ぼす光と闇の明暗の世界、天と地、光と闇、明と暗という対照的な二つの絶対的なものは、やがて「陽と陰」という概念を生み出しました。
天地・明暗は陽と陰の概念となり、陽と陰に始まる天地が男女のように交わって大自然を創造するのであり、天地の働きは絶対的なものであると信じられました。では天と地はかくも離れているのにどうして結びつくのか…と考えたところ、天から雨が降り注いで大地を潤おし、雪が降ると大地は深い眠りにつき、地響きとともに大地が隆起して山となり、山ができれば自ずと沢が生まれ、沢には心地よい風が吹きわたります。ある時には雷鳴が轟き、山は火を噴き、恐ろしい風雨に川が溢れて水浸しにもなります。あふれ出た火の川もやがて鎮まり、積もった灰は固まり土となっていきます。全ての現象は天の恵み、天の怒り、天の慈しみとなって地に及び、滅びと誕生を司り、草木が芽生え、動物たちが生まれ育まれる天地の力なのだと実感します。
このような全ての天地の働きを八つの要素に凝縮して八卦が生まれました。
陽と陰に始まる天・地、水・火・雷・沢・風・山の八つの要素を八卦といいます。
さらに天(陽・父)と地(陰・母)に人(陰陽・子)が生まれる「天・人・地」の現象を三つの記号(爻)で表します。啓山式に陽を1、陰を0で表すと下記のように表せます。
天111 沢011 火101 雷001 風110 水010 山100 地000
これは神話のような八卦の誕生説ですが、古代人の素朴で純粋な英知を感じ取れます。数としての論理的な易の成立過程からみても、八卦は間違いなく天地・大自然の働きを凝縮するものです。

C2 十一月・霜月

十一月は霜月。霜が降りて冬が訪れてくることを実感する時期です。雪待月ともいいますが、雪の季節に備え急ぎ冬支度を整えて待つという意味のようです。十二支では亥の月。冬が近い不安から気ぜわしく備えを急ぎ、ひたむきに働く姿を示し、人の亥の性質にも似ています。十月は戌で豊穣の実りを示しますが、亥は蔵に保存された収穫・米俵を象徴します。保存する性の亥は一途に大事なものを守る特性があり、それは次世代に残す大事な生命の核となるものです。「核」は生命を表す「木」に「亥」と書き、春にまく種を残すことの大切さを教えます。収穫を終えた十一月の大地は荒涼としています。ミレーの有名な絵画に「晩鐘」と「落穂拾い」があります。晩鐘は収穫を終えた農民が敬虔に感謝の祈りをささげ、落穂拾いは一粒の落穂も残さぬよう拾う農民の姿ですが、とても亥の月のイメージに合います。易では「坤為地」という全てが陰の卦になり、啓山式に表せば000・000となります。陽気(1)が全く無いということは表面的には発展の動きのない世界です。でも環境に従い耐え忍び、地中の生命の冬籠りを助け育む「母なる大地」を示す、包容と慈悲の卦でもあります。

そのような観点から十一月は冬支度の月で、易は豊かさに慢心せず、人生の冬に備え余力を蓄えることが大切と教えます。

A4 メソポタミアと古代日本の類似点-2

書の中で、王朝が滅んだあとの古代シュメール人の一部が、船で日本に渡り、関東に定着したのではと推論しています。現在の茨城県・鹿島神宮と千葉県・香取神宮は海に近く、大小の水郷を挟んで対峙しています。その辺りは、キ・エンギ(葦の沼の地)と呼んだシュメールの民の故郷の景色とよく似ており、故郷の「チバイシ」という地名と千葉という地名の符合にも思わず唸ります。神宮と呼ばれる格の高い神社は、昔、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社でした。伊勢神宮はわかりますが、鹿島・香取は目と鼻の先にあり、しかも関東の地です。なぜなのか不思議です。伊勢神宮が皇統に関係することは確かですが、この二神宮も古代日本のスメラミコトに関係していたのでしょうか…

そして忽然と消えた古代のシュメール人が葦船で世界の海へ、また日本へ渡ったという痕跡を証明するために、驚いたことに残された古代製法をもとに、インドで古代の葦船を復元して、日本へと実際に航海して見せたのです。現実に対馬沖までたどり着き嵐に遭遇して一命を取り留めたという冒険をした方です。新聞にも掲載され、その古代船は平成十一年まで横須賀の「うみかぜ公園」で公開されていたそうです。(残念!見ていません)巻末の航海記録は圧巻でした。関東から東北へさらに西へと、文字や風習・風俗・唄などにも多くのシュメール文明との類似点が残されていることも興味深く、古代のロマンに浸ることのできた岩田氏の書でした。私は他の観点で、易の数との符合をシュメール文明に見出し、その後しばらくシュメール関連の書物に熱中してしまいました。

A3 メソポタミアと古代日本の類似点ー1

『消えたシュメール王朝と古代日本の謎』(岩田明著・学習研究社発行)をご紹介します。東洋の古代史に関心を深め、様々な書物を読んでいたころ出会った本です。それ以前に最古の文字といわれる中国・殷の象形文字(甲骨文字)より古い時代に、楔形文字があり、その発祥がシュメール文明にあるという知識がありました。紀元前七千年~三千年の間繁栄したシュメール文明は、数々の遺跡や遺物が発見発掘されて、実在が確認されていますが、シュメール人の多くは王朝が滅んだ後、忽然と消息を絶った謎の民族でもあります。シュメール人はメソポタミアの先住民ではなく、中央アジア、現在のチベット北側の崑崙(こんろん)山系の高地に住むクメル族であり、その民を統括していたスメル族がルーツです。そのスメル族の「スメル七賢人」が船でメソポタミアに渡り、農業・造船・医学などの高度な知識を先住民に教え、シュメール文明の基礎を作ったという、シュメール文字の解読による創世記伝説が残されています。

スメルは「尊い人」という意味で、日本の天皇・皇尊も「スメラミコト」と読むことも興味深いですね。ちなみにシュメール王朝の遺跡に残る王家の紋は十六弁菊花紋です。

岩田明氏は三井造船の航海士という経歴を持ち、各国を回り、世界中で文化や生活習慣に日本人と類似する人々を見て、探求するうちにシュメール文明に至ったそうです。そしてシュメール文明にある文字・言語・様々な風習・風俗・地名などに古代日本との類似点を発見し、深く探究して著したのが冒頭の書です。