B10 五行の発祥

五行は古代中国の世界観であり、万物を五つの気(元気)で表す哲学的な理論です。その発祥は、創世記の易にまつわる『河図・洛書』(ブログB9)の伝説に遡ります。

神話の聖人である伏犠が河図から八卦を描き(先天図)、中国最古の王朝とされる夏を開いた禹王が洛書を描いたと伝えられます。禹王は荒ぶる水を治めて王に推挙された人物で、治水についての見識が深いのは当然ですが、水を治めるためには土の作用や天文や季節との関わりなどを同様に研究することが不可欠であったのではと思います。洛書は河図を発展させて、水に加え木・火・金・土の万物の要素を配して、後の陰陽五行説の基となる後天図を生み出しました。

図の星の数を縦横斜めに加えると全てが15となる魔法陣であり、紀元前400年代、中国の戦国時代の諸子百家の一人鄒衍(すうえん)が、陰陽五行思想を唱えて体系化し、漢代には神秘学として大いに普及しました。六世紀ごろ日本にも伝わり、映画にもなった安倍晴明の「陰陽道」もこの流れを汲むものです。

このような経緯から、神秘術や占術の要素が強くなり、特に近代では非科学的なものとする傾向がありましたが、本来の五行は宇宙自然の真理である易と元を同じにする自然学です。現代では注目されている漢方の源流である東洋医学は、五行の相生・相剋を基にしており、伝統的なもの以外にもあらゆる分野で陰陽五行の理念が浸透しています。

B9 八卦の誕生ー2

八卦の誕生には諸説があります。易の始祖と言われる「伏犠」が、黄河に表れた竜馬の背中のつむじ状の文様を発見し、写し取って八卦を創り表したとされ、これは天の絵図「河図(かと)」として伝えられます。さらに今から4千年余り前のころ、「夏」という中国最古の王朝がありました。初代の禹王は治水の優れた技術者でもあり、前王の舜より禅譲されて夏王朝を創始したと伝えられます。禹王は徳も篤く、前述の伏犠の八卦を政務に生かし、伝説では洪水を修めた洛水から現れた神亀の背にあった九つの文様を発見し、それは後世に地の絵図「洛書(らくしょ)」として伝わり、「河図」と共に『書経(中国の五経の最も重要な経典)』の元になったといわれます。

河図に十干を配し、洛書に十二支を拾い、5を中心に配置した1から9の数はたすと15となるという、いわゆる魔方陣です。今に伝わる九星術もこれをもとに編み出されたものです。真実はわかりませんが、B8で記したように、古代人が長い年月をかけて天地の変化を実感し創り上げたものという説もあり、シュメールのような高度な文明からもたらされたという推論も捨てられません。いずれにしても、この河図・洛書は干支や易の元となるものとして伝説となっています。

易は代々の帝王の学でもあり、竜馬や神亀などの神秘性をもたせることに意味があるのかもしれません。実際に数千年前の発見である河図・洛書が世に出たのは、それから三千年余り後の南宋の時代です。朱子学を起こした偉大な学者である朱熹(1130~1200)の、弟子の祭元定(1135~1198)が、山深くに住む道士から、その祖先が焚書を逃れて守り通したという河図・洛書を含む九枚の絵図を入手したという伝説があり、それをもとに、朱熹は『周易本義』を著したといいます。現代に伝わる朱子学(儒学)や周易はこの朱熹等により確立されたものです。遡れば紀元前の二千年間に、伏犠や周の文王や周公旦、孔子等の手により、「易経」が創り上げられたというのも不確実なのですが、現実に数千年を経た現代に伝えられていることは事実なのです。

B8 八卦の誕生ー1

言葉も不完全な古代のこと、人々は太陽に照らされる時と、日が沈み闇に包まれる時の繰り返しの中で、「明と暗」を実感し、「昼と夜」を感じ取りました。また、手の届かないはるか彼方に広がる「天(空)」にきらめく月や星々を仰ぎみ、周囲や足元には様々な樹木や草木が生え、そこに人や動物たちが生きている「大地」を実感していました。

天の太陽が地に及ぼす光と闇の明暗の世界、天と地、光と闇、明と暗という対照的な二つの絶対的なものは、やがて「陽と陰」という概念を生み出しました。
天地・明暗は陽と陰の概念となり、陽と陰に始まる天地が男女のように交わって大自然を創造するのであり、天地の働きは絶対的なものであると信じられました。では天と地はかくも離れているのにどうして結びつくのか…と考えたところ、天から雨が降り注いで大地を潤おし、雪が降ると大地は深い眠りにつき、地響きとともに大地が隆起して山となり、山ができれば自ずと沢が生まれ、沢には心地よい風が吹きわたります。ある時には雷鳴が轟き、山は火を噴き、恐ろしい風雨に川が溢れて水浸しにもなります。あふれ出た火の川もやがて鎮まり、積もった灰は固まり土となっていきます。全ての現象は天の恵み、天の怒り、天の慈しみとなって地に及び、滅びと誕生を司り、草木が芽生え、動物たちが生まれ育まれる天地の力なのだと実感します。
このような全ての天地の働きを八つの要素に凝縮して八卦が生まれました。
陽と陰に始まる天・地、水・火・雷・沢・風・山の八つの要素を八卦といいます。
さらに天(陽・父)と地(陰・母)に人(陰陽・子)が生まれる「天・人・地」の現象を三つの記号(爻)で表します。啓山式に陽を1、陰を0で表すと下記のように表せます。
天111 沢011 火101 雷001 風110 水010 山100 地000
これは神話のような八卦の誕生説ですが、古代人の素朴で純粋な英知を感じ取れます。数としての論理的な易の成立過程からみても、八卦は間違いなく天地・大自然の働きを凝縮するものです。

B7 十干・十二支の由来

十干は甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十の符号です。

中国の古い記録『呂氏春秋』には「大撓(たいどう)甲子をつくる」とあり、『漢書・律暦志』にも、「黄帝、大撓(たいどう)をして甲子をつくらしむ」とあるため、この大撓(たいどう)が干支の作者とされています(暦読み解き辞典参照)。黄帝は中国神話の三皇五帝の一人で、伝説上の人物です。他にも易の始祖伏犠が弟子の徐史明に命じて創らせたという説もあります。十干・十二支の数のルーツを遡ればメソポタミア文明に行き着くというのは自説ですが、メソポタミアは文明発祥の地とされ、高度の農業技術や天文・造船などの高い技術や知識があったことが明らかになっています。海・陸のルートを通じてアジアにもその文明が伝えられていたと思えます。古代中国に発祥する十干は、古代の農業を適切に行うための目安、暦の原型であったのではと思われます。人の指は両手で十本あります。片手は五、両手で十を表すのは五進法の元ですが、人の両手の指が文字のない古代の数を数える基準であったと思えます。十干は後に河図(天の絵図、易の根源図)に伝えられます。北の空は北極星を軸にして回る北斗七星があり、北半球のアジアでは、この北斗七星の動きを手かざして測り、季節をつかみ、種をまく時期、刈り取る時期などを予測していたのでしょう。。

さらに十二支(地の絵図『洛書』に描かれる易の根源図)は、およそ12年(11,86年)で天を一周(公転)する木星(歳星)の運行を基準にして、西から東に運行する木星にかわる仮の星・「太歳」を設け、太陽と同じに東から西に移動させた十二の位置に見合う符号をつけ、子・丑・寅…としたのが始まりであると伝えられます。あまりにも古代の話ですが、様々な書物に記される十干・十二支は、天体の運行を読み、農業や生活を営むため、人の知恵が生み出した暦の始まりでした。

B6 自分を愛しみ尊ぶことは易の根本精神

謙虚であると同時に少々の自惚れは元気を出すためには有益です。生まれてきた自分に絶対的な価値があると自覚することはとても大事なことです。大事な自分だからこそ、「自己=我」と向き合い、誤りを修正して延ばしていくために変化していくことを望み、変化を受け入れることができます。それは生命を愛しみ尊ぶ易の根本精神と共通しています。

生命の愛しさ尊さを学び知ることは、知性を豊かに育てます。そして育まれた知性を日常に実践し行動することで、生命のもつ力が延びてゆきます。しかし理屈だけ学ぶことは役に立つより逆に他人の迷惑にもなり得ることで、頭で学び体で知ることがとても大事なことです。知性と行動は陰・陽の関係であり、知行・陰陽一体となってこそ易は真価を発揮します。人は前に進むために歩き行動してその人の道となりますが、易学の道は易の学びを実践することで人を延ばし前進させる道理です。人生のいつの時点でも、易を知る機会があることは幸運なことです。六十で知れば六十化して以後の人生を活性し、十代、二十代で知れば、自分を修め延ばして、無限の未来の可能性を拓く知性と行動力を育むでしょう。全ての人は天命を受けた尊い命だからこそ、その人生を生き抜くことが天道をゆくことといえましょう。